Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/6b1207c644428af81c21597317564ff00ca1868f
2分間に亘って銃声と悲鳴
〈居並ぶ親兄弟に機関銃をぶっ放し、自らも頭を撃ち抜いて自殺するという惨劇がネパール王室で起きた。犯人とされる皇太子が、結婚を反対されてキレてしまったというのだが――。〉 【写真】東電OL事件で“冤罪15年服役”…補償金6800万円を使い切ったネパール人男性、現在の姿
2001年6月1日に起きたネパール王室の銃撃事件。当時の「週刊新潮」によれば、ディペンドラ皇太子(29=当時、以下同)がビレンドラ国王(55)夫妻ら9人の王族を射殺して自身も自死、他4人を負傷させるという前代未聞の惨劇である。 〈「カギを閉めて逃げられないようにした晩餐会場からは、2分間に亘って銃声と悲鳴が聞こえ、再びドアが開いたその場はまさに阿鼻叫喚。現場はまるで血のスプレーを天井まで吹き散らした様だったそうです」(カトマンズ特派員)〉(「週刊新潮」2001年6月14日号、以下同) 犯行現場は一族の晩餐会だった。ディペンドラ皇太子はこの席で、かねて母親に反対されていた名家の娘(22)との結婚を皆からも反対されて逆上。会場を飛び出したが、半自動小銃2丁と拳銃を持った軍服姿で戻り、犯行に及んだという。そして犯行後に立ち去る際、持っていた拳銃で自分のこめかみを撃ち抜いたと報じられた。 病院への搬送時はすでに脳死状態だったが、国家評議会は「銃の暴発による事件」としてディペンドラ皇太子の国王即位を発表。国王の実弟ギャネンドラ殿下は摂政となったが、数日後にはディペンドラ国王(皇太子)の死亡により国王に“繰り上げ”となった。
1人だけ現場にいなかった「国王の弟」
以上の経緯からすればプライベートが理由の諍いだが、事件後は冤罪説や謀殺説が広まり、デモや暴動が発生した。単なる諍いとは思えない要素が多数あったからだ。しかもディペンドラ皇太子は、若い時分こそ過ぎた行動があったものの、事件当時の評判は決して悪いものではなかったという。 〈「最近ではすっかり大人になって国王から国事行為を任されることも多かった。春の来日も遊びではなく、3つの宿題を国王から貰ってきたのだと嬉しそうに語っていました。一つはITについて学ぶこと。もう一つは国民との良好な関係をどう保つのかということ。そして3つめは平和の精神を学ぶのだと言っていました。両親を殺すなんて想像もできないような好青年です」(日本ネパール協会・野津治仁理事)〉 そして、国王の弟で摂政から繰り上がったギャネンドラ国王と、その息子パラスに対する疑惑。ノンフィクション作家の上原善広氏は「新潮45」への寄稿でこう記している。 〈現地紙のある記者は語る。「王族が集まるパーティの席に、なぜ国王の弟ギャネンドラだけがその場にいなかったのか。そして、現場にいながらその息子パラスと警備の者だけが無傷だったのか。そこが疑問なんだ」〉(「新潮45」2001年12月号「ネパール国王暗殺の真相と『毛沢東の息子たち』」)
身内の諍いか、クーデターか
事件から数週間後に公表された報告書は、「ディペンドラ皇太子(没後は前国王)が銃を乱射して王室一家を殺害」という結論だった。だが、「要旨をみるかぎり、庶民はこの報告書の内容をほとんど信用してませんよ」と「週刊新潮」に語ったのは、長崎大学の谷川昌幸教授(当時、ネパール現代政治)である。 〈「ディペンドラ前国王がやったにしても、その動機については一切、触れていない。また、当初の発表では、彼は自殺したことになっていたが、報告書ではただ、倒れていたことになっている。説明の仕方が極めて不自然です」〉(「週刊新潮」2001年6月28日号) では、実際にどのような“ウラ”が考えられていたのか。上原氏は先に挙げた記事で、現地で囁かれている“推測”を記した。 〈中国・チベット問題のために親中国、反チベットのビレンドラ国王を追い出し、共産主義ゲリラをも一掃しておきたいアメリカ。そして親インドのギャネンドラを国王にして、ネパール支配をより進めたいインド。最後に、現状のままでは国王になれないギャネンドラとその息子パラス。実行犯は、ロイヤル・ポリスの三人とパラスではないかと考えられている。〉(「新潮45」2001年12月号「ネパール国王暗殺の真相と『毛沢東の息子たち』」) この推測は数あるもののひとつであり、現在も推測のままだ。今後も真相は明らかにならないとみられている。
国民の支持がマオイストに
射殺事件後、ネパールはさらなる混乱に見舞われた。ギャネンドラ国王の不人気に政治家の汚職辞任などが重なり、国民の支持がマオイスト(毛派)ことネパール共産党毛沢東主義派(現在のネパール共産党統一毛沢東主義派)に集まり始めたのだ。マオイストは1996年2月から、政府軍との間でネパール内戦(人民戦争)を続けていた。 殺害されたビレンドラ国王は、90年の民主化運動を受けて複数政党制の復活と民主憲法を公布するなど、ネパール民主化を象徴する人物だった。対してギャネンドラ国王は、インドとの蜜月関係や自身と息子に関する黒い噂など、国民の不信を招く要素は豊富。民主化運動には即位前から反対し、マオイストに対する姿勢も強権的だった。 マオイストは毛沢東主義派と名乗っているが、毛沢東と直接の関係はない。中国が支援していたのはネパール王室側であり、駐ネパール中国大使は2003年1月、「彼ら(マオイスト)の行動と毛沢東思想は全く関係がない」とメディアに語っている。
現在は王政復活の気運に勢い
事件後にマオイストのテロ活動が激化したことを受け、ギャネンドラ国王は政治への直接介入を始めた。全閣僚の解任と直接統治の宣言は2002年10月と2005年2月の2回。この姿勢は強い反発を招き、共闘路線を取ったマオイストと政党連合(7党連合)は、2005年11月に国王親政の終結などで合意に達した。 ギャネンドラ国王は2006年の民主化運動を受けて主権を返還。この際、インドは仲裁に失敗し、アメリカは国王に対し権力の放棄などを訴える声明を発表している。同年11月には暫定政府とマオイストの間で和平合意が成立し、ネパール内戦が終結した。 2008年5月28日には王政廃止、すなわち「ネパール王国」が終焉。しかし、連邦民主共和制に移行しても政情は容易に安定せず、2015年には大地震にも見舞われた。王政復活要求デモもたびたび発生し、今年も2月の民主主義記念日にギャネンドラ元国王が「国のためには国民の団結が必要」などと訴え、王党派を活気づかせている。衝撃の射殺事件から来年で25年、この熱はどこへ向かうのだろうか。 デイリー新潮編集部

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