Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/a914a5a54c9a054e42dfbb427e1971c592854e4e
インドとパキスタンは、4月にインドが実効支配するカシミール地方で起きた観光客襲撃事件が原因で、報復合戦を行い、5月10日に停戦した。国際問題としてのカシミール問題は印パ対立の象徴として知られているが、インド側カシミールのムスリム住民とインド政府の関係について日が当てられることは少ない。この地域では、長年、治安部隊による人権侵害で人びとは苦しんでいるが、政府による報道規制もあって、その実態はあまり知られていない。 (廣瀬和司) 【カシミール 写真特集(アーカイブ)】外出禁止令下のスリナガルの姿
◆事件の発生
インド亜大陸北部、インドが実効支配するジャンムー・カシミール(以下カシミール)で4月22日、武装勢力による銃撃があり、少なくとも26人が殺害される事件が起きた。現地メディアの報道によると、事件現場はカシミール南部の山岳地帯パハルガムのバイサランという草原地にある有料遊具広場で、ジップラインやトランポリン等の遊具やポニー乗馬等もあり、発生した時には新婚旅行や家族連れの大勢のインド人や外国人観光客がいたという。 現地時間の午後2時ごろ武装勢力が現れ、男性と女性や子供と分け、身分証の確認や、イスラーム教の教典であるクルーアンの一節を唱えるように要求したり、ズボンを脱がせ割礼(ムスリムは割礼している)しているかどうかを見て、撃ったとされる。殺害された26人のうち、24人がインド人のヒンドゥー教徒で、1人がネパール国籍、そして、最後の1人が観光客たちを銃撃から守ろうと身を挺した地元の馬引きのイスラーム教徒だと言われている。
◆武装組織による犯行の目的
犯行を実行した武装組織は「抵抗戦線」(The Resistance Front、以下TRF)を名乗り、「我々は地元民や女性と子どもは傷つけていない(実際は間違いだったが)、我々は入植者(男性ヒンドゥー教徒)の身元を確認し、パハルガムの地獄に突き落とす」と自慢げに犯行声明を出した。 TRFは、パキスタンの第2の都市ラホールに本拠を置く「ラシュカル・イ・タイバ」(純粋な軍隊)というインドやカシミールを専門に攻撃をする武装組織の変名である。2008年に166人が亡くなったムンバイ同時テロ事件も、同組織による犯行だった。実行犯は4〜5人と見られ、そのうち2人は地元カシミール人と伝えられている。 TRFは犯行声明で「部外者が定住している」と不満を表していた。元々、カシミールでは旧藩王国時代からジャンムー・カシミールに居住するもの以外は、居住はできず、不動産を持つこともできなかった。だが、2020年にできた居住法では、一定の条件を満たせば、移住者が地元政府から居住権の付与を受け、土地を購入することが可能になった。そのため、地元の人びとは、カシミールが自分たちのものではなくなることを恐れていた。以後、武装勢力がインドからの季節労働者や、後述する、帰還したカシミーリー・パンディットたちを暗殺する事件が、度々起きていた。 今回の事件は、インドではパハルガム・テロと名付けられ、特にヒンドゥー教徒が選ばれて殺害されたことの衝撃は大きかった。1995年に6人の外国人観光客が同じパハルガムで誘拐され、行方不明となった事件があったが、それ以外、観光客が狙われることはなかった。 インド政府は対抗措置として4月23日、インドにいるパキスタン人の追放、駐在武官の追放、外交団の格下げ、インダス川水利協定の一時停止、唯一の印パ陸路国境の閉鎖を発表した。
◆カシミールの人びとは、事件をテロとして反対した
事件直後、カシミールの人々の反応は早かった。事件当日の夜には、事件はテロだとして非難し、犠牲者を追悼するロウソクを灯しての示威行動がカシミール各所で見られた。翌日には、宗教団体や各種団体が呼びかけて、テロに抗議する一斉ストライキが行われた。街頭では、「ムスリムとヒンドゥーは兄弟」といったスローガンが唱えられ、「テロに対して団結しよう」といったメッセージが掲げられた。なかには、「パキスタンよ地獄に落ちろ」、「我々はインド人」、と今までだったら考えられないようなスローガンまでが、インターネットの動画で見受けられた。 その理由として考えられるのは、(1)さすがに観光客という丸腰の民間人を標的にした攻撃は、いくら分離独立派の仕業とはいえ、共感できなかった、(2)事件によって、カシミール人全体がテロとの結びつきを問われ、迫害されることを防ぎたかった、(3)90年代前半から、観光業は壊滅状態だったが、近年は年間300万人の観光客が来ており、昔には戻りたくない、という心理が働いていた、というところだろうか。 迫害に関しては、事件直後から、インドの複数の大学の寮で、カシミール人学生が暴行を加えられたり、寮を出るように脅された。ウッタラーカンド州ではショールの行商人16人が、暴行を受けたりした。こうした憎悪は、カシミール人だけでなく、一般のイスラーム教徒にも向けられている。近年、インド、特にモディ政権下では宗教マイノリティ、特にダーリット(ヒンドゥー教カースト外の被差別民)やイスラーム教徒への差別が公然と行われている。 その一方で、現場にいたカシミール人たちは、命を張ってインド人観光客たちを助けた。助けられた者の中には、普段はイスラーム教徒に敵対的なインド人民党(BJP)の党員もおり、自分の子供を守ってくれたことの感謝をSNSに投稿した。犠牲者の家族の女性にずっと寄り添い「父は亡くなったけど、新しい兄弟ができた」と、語られた者もいた。 彼らがしたのはとっさの行動で、「自分たちは普段はテロリストと呼ばれているので、汚名を挽回しなくては」と計算をしたわけではない。生まれながら紛争が身近な環境に育ったからこそ、できた行動だった。イスラーム教徒で唯一殺されたサイード・アディル・フセイン・シャーさん(30歳)は、犯人たちから銃を奪おうとして撃たれ、上半身は銃痕だらけだったという。彼の犠牲がなければ、カシミール人たちはテロリストだと、もっと責められていただろう。
◆カシミール問題の始まりと人権問題
カシミール問題の始まりは、1947年、インド・パキスタン両国の独立のときカシミールの領有をめぐって争った、第一次印パ戦争に起因する。この戦争は国連の仲介により停戦し、印パのどちらに帰属するか。国連の監視下による住民投票で決めるとされた。しかし、印パ両国がお互いに不利な結果がでることを嫌い、現在に至っても行われていない。東パキスタン(現バングラデシュ)独立をめぐる第3次印パ戦争後の1972年には、両国は戦後処理のためシムラ協定を結び「カシミール問題は2国間で協議すべき」と定めた。インドはこれを根拠に国連の介入を拒み続けている。 1950年発効のインド憲法では、ジャンムー・カシミール州とされた印側カシミールに防衛・通信・外交以外の自治権を与える憲法第370条が施行。これは、カシミールの人びとのインド帰属への歓心を買うためだった。 印側カシミールは、住民の7割がイスラーム教徒で、インド国内で唯一のイスラーム教徒が多数派の州だった。憲法第370条によって人びとは自分たちはインドの中でも特別だと思っていたし、パキスタンと隣接していたため、常に分離独立の機運が漂っていた。そのため、影響力を行使するために、インド政府は戦後、たびたび州内政治に干渉し、自分たちに従順な政権を作ろうとしていた。 そうした長年の干渉に嫌気がさし、1987年の州議会選挙では、地元の地域政党が連帯し、中央政府寄りの政党に対抗しようとした。しかし、選挙活動は弾圧され、選挙結果は自分たちが投票した実感と開きがあったため、票の改ざんが疑われた。 選挙という民主的な手段での意思表示を否定された人びとは絶望し、若者を中心にパキスタンに越境して軍事訓練を受け、インドからの分離独立を目指して闘うようになった。 多民族国家であるインドでは、分離独立は国家解体を招きかねないので、その対応は徹底弾圧である。現地では軍隊特権法(AFSPA)という治安法があり、治安部隊による令状なき逮捕、現場での拷問、処刑、家屋の占拠といった人権侵害が長年にわたって横行している。同法により罪を犯しても免罪されるからである。 地元の人権団体・ジャンムー・カシミール市民社会連合(JKCCS)によると、90年代初頭から現在までの、治安部隊による連行、拉致の後に行方不明になった人びとが、約8000人に達するという。 また、一部のカシミール土着のヒンドゥー教徒(カシミーリー・パンディット)が標的となって殺されたことで恐怖感が広がり、約12万人のカシミーリー・パンディットが、ジャンムーやデリーに逃げていった。 最初の武装闘争は1994年ごろを境に下火となったが、軍隊特権法を背景とした人権侵害は続いており、反インド感情は燻ぶったままだった。


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