2019年4月9日火曜日

初潮を迎えるまで生き神として生きる少女「クマリ」を知っていますか

Source:https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190407-00063905-gendaibiz-int&p=2
4/7(日) 、ヤフーニュースより
 日本への移住者が年々増加しており、私たちにとって身近な存在となりつつあるネパールの人びと。彼らの故郷ネパールは100以上の民族で構成され、さまざまな宗教や言語が共存する多民族国家だ。TRANSIT43号では、そんな多様な文化をもつ国・ネパールを特集している。

 ネパールで信仰されている神々のなかでも特異な存在といえるのが、少女の生き神“クマリ”。選ばれし少女は、一体ネパール人にとってどんな存在なのだろうか。インド・ネパール地域の宗教を中心に研究をつづける、東洋大学・山口しのぶ教授に聞いた。

 文:山口しのぶ

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山口しのぶ(やまぐち・しのぶ)
東洋大学文学部東洋思想文化学科教授。ネパール仏教やヒンドゥー教を中心に、アジアをフィールドワークしながら研究している。著書に『ネパール密教儀礼の研究』(山喜房仏書林 )がある。
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「クマリ」とはなにか
 北海道の1 . 8倍ほどの広さの土地に3000万人あまりが暮らし、ネワール、タマン、グルン、シェルパ、パルバテなど多様な人びとからなる多民族国家を形成するネパール。この国の政治、社会、経済の中心地であるカトマンズ盆地には、「クマリ」(kumari)と呼ばれる生き神信仰がある。

 「クマリ」とは古代インドのサンスクリット語で「処女、少女」を意味する「クマーリー」(kumārī)のネパールでの発音である。クマリはカトマンズ盆地に古くから住むネワール人の少女たちから選ばれ、彼女たちが初潮を迎えるまでの数年間を「生き神」として過ごす。成長して初潮を迎えると、生き神クマリはふつうの人間にもどる。

 この地ではクマリは、ヒンドゥー教の女神「ドゥルガー」と同一視される。クマリには「ロイヤル・クマリ」すなわち王家のクマリでありネパール全体で崇拝されるクマリと、特定の地域でのみ崇拝される「ローカル・クマリ」がいる。15世紀末からの中世後期、カトマンズ盆地ではカトマンズ、パタン、バクタプルの3つの王国が分立し、それぞれの王国にロイヤル・クマリがいた。しかし現在ではカトマンズのロイヤル・クマリのみがその役割を継承している。

 カトマンズ市中心部の旧王宮広場には、「クマリ・チョーク」と呼ばれるロイヤル・クマリの住まいがある。クマリに選ばれた少女は、自身の家族から離れてクマリの任を解かれるまでこの館で暮らす。
クマリの必須条件は「32の完全さ」
 クマリの選出にあたっては、いくつかの条件が課せられる。クマリの選出は「ダサイン」もしくは「ドゥルガー・プージャー」と呼ばれる祭りの際に行われる。ダサインとはドゥルガー女神が水牛の姿をとる魔神に勝利したことを祝う祭りで、この祭りの際、多くの水牛やヤギが犠牲として女神に捧げられる。クマリになるためには、水牛が首を切り落とされたところを見ても恐れた顔をしてはいけないとされる。

 また、クマリは身体的な「32の完全さ」を備えていなければならない。たとえば「形のよい爪」「ライオンのような胸」「ほら貝のような首」「アヒルのように筋の通った脚」「牛のようなまつ毛」などがその条件である。これは推測だが、仏教でブッダの超人的な32の身体的特徴をあらわす「三十二相」(たとえば「手に水かきがある」「耳たぶが長い」「扁平足」などの常人ではない優れた特徴)と、このクマリの「32の完全さ」は何らかのかかわりがあるのかもしれない。
ヒンドゥー教と仏教の「橋渡し」
 クマリはヒンドゥー教のドゥルガー女神と同一視されるが、この生き神は必ずネワール仏教徒の家庭から選出される。もともと古代インドにおいてバラモン教の身分制度を否定する形で仏教は成立したが、中世期のネワール社会では、ヒンドゥー教徒であった国王ジャヤ・スティティ・マッラの治世下、ネワール人の仏教徒社会にもカースト制が導入された。

 ネワール仏教徒のカースト・システムでは僧侶カーストが一番上位に位置し、さらにその僧侶カーストは「ヴァジュラーチャールヤ」(金剛阿闍梨)、「シャーキャ」(釈氏)の2つのサブ・カーストからなる。クマリはたいていシャーキャの家庭から選ばれる。また仏教徒たちはクマリを仏教の女神「ヴァジュラ・デーヴィー」(密教仏チャクラサンヴァラの妃ヴァジュラ・ヴァーラーヒーのこと)であると考えている。

 このような経緯でクマリはヒンドゥー、仏教の両方の宗教で神聖な存在であるとされており、カトマンズ盆地においてポピュラーな2つの宗教の橋渡し的存在としても機能してきた。

 クマリの第一の仕事は、普通の少女のように学校で勉強したり友だちと遊んだりすることではなく、儀式を行うことだ。ロイヤル・クマリの参加するもっとも大きな儀式は「インドラ・ジャトラ」(「インドラ神の巡行」の意)と呼ばれる祭りである。毎年9月頃8日間行われるインドラ・ジャトラの一連の行事のなかで、ロイヤル・クマリは3日間にわたり山車に乗り巡行する。

 期間中、クマリ巡行の山車はクマリの館を出発し、旧市街の歴史地区を回り館に戻る。最終日に追加の巡行が行われ、その日歴代国王はクマリの足元にぬかずき、クマリは国王の額にティカ(祝福のための赤い粉)をつけた。

 王家のクマリは、王家の守護女神タレジュとも同一視され、この国王の額にティカをつける行為は、守護女神タレジュが国王に翌年の統治を行う権利を与えることを意味した。このクマリの山車巡行は、中世期のカトマンズ・マッラ王国最後の王ジャヤプラカーシャ・マッラにより開始されたが、2008年ネパールの王政が廃止され共和国となって以降は、クマリが国王を祝福する行為は行われていない。
異民族をつなぐ存在として
 前に述べたように、クマリはネワール人固有の伝統であり、ネワール人が信仰するヒンドゥー教と仏教という2つの宗教の共存のために重要な役割を果たしている。しかしネパールの歴史をみてみると、クマリが果たした役割はこれだけではないことに気づく。

 18世紀、カトマンズ王国最後のネワール人国王ジャヤプラカーシャ・マッラの時代、すでにカトマンズ盆地の外ではゴルカという別の民族の勢力が台頭していた。当時のゴルカの王プリティヴィ・ナラヤン・シャハは、 1768年、インドラ・ジャトラの祭りの際にカトマンズに侵攻した。その時クマリは山車巡行にあらわれたゴルカ王に祝福のティカを授けたという。

 つまりここでは、ネワール王家の守護女神タレジュでもあるクマリが、異民族ゴルカの王を祝福し国の統治を託したのである。ゴルカの王は翌年ネパールを統一し、ゴルカ(シャハ)王朝を開始した。ネワール人による王朝は滅亡したが、クマリ制度そのものは残った。ゴルカ王も、他民族の住む土地を平和的に統治する一つの手段としてクマリ制度を有効活用したのだろう。多民族国家ネパールにあって、クマリはこのように異民族間の共存のための有効な装置としての役割も担ってきたのだ。
クマリの「今」と「これから」
 現在、クマリの存在はさまざまに議論されてきている。人権団体がクマリの生活を指し「小さな少女を親元や社会から隔絶することは、子どもの人権侵害である」とし、クマリ廃止を訴えたという事例もある。そのような過程を経た現在もクマリ制度は存続しているが、最近では両親を携帯電話で呼び出すこともできるようになり*、その生活は少しずつ変化しつつあるようだ。

 *朝日新聞2018年10月15日朝刊p.9参照

 将来ネパールの近代化、グローバル化が進むと「聖なる生き神クマリ」の存在やその役割はどのように変化するのだろうか。その変化の中身はいまだはっきりとはみえない。

 ちなみに現在でも、首都カトマンズにあるクマリの館では、時間が合えば窓から顔を出すクマリの姿を一目見ることができる。また、民族や宗教が混在しているネパールには、クマリ以外にもたくさんの神々が存在すると言われている。ネパールを旅すれば、その多彩で奥深い信仰世界を垣間見ることができるだろう。

 TRANSIT43号のネパール特集では、クマリ以外ネパールの民族や宗教について詳しく紹介している。旅気分に浸りながら、ネパールの信仰世界を紐解いてみてほしい。

 ※本記事は「TRANSIT43 カトマンズもヒマラヤも!  愛しいネパール」を再編集したものです。
TRANSIT編集部

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