Source: http://mainichi.jp/articles/20160915/ddl/k25/040/496000c
毎日新聞
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始まりは「ヒマラヤを見て授業がしたい」だった。青年海外協力隊員として偶然派遣されたネパール南部の先住民族の厳しい境遇に胸を痛め、この四半世紀、支援を続ける高校教諭がいる。先月の休暇中も現地を訪ね、長年の交流を「一番大切な心の財産」と呼ぶ。【エリア編集委員・大澤重人】
県立大津清陵高馬場分校の左近健一郎教諭(55)=栗東市。教員になった1984年、指導に悩んでいた。ある日、電車で「青年海外協力隊員募集」のつり広告を見た。ケニアで教える、自身と同じ理数科教員が紹介されていた。「これや」
理数科教育法や語学力審査、面接などを受け合格。登山が好きだったことから、ネパールを志望し希望が通った。しかし北アルプスで転落して大けがをして辞退。数年後に再挑戦し、念願の派遣となった。
ネパールが絶対王政から立憲君主制に変わり、民主化された年だった。当時29歳。ネパール語を4カ月学んで90年8月、先住民のタルー族が住むデウクリ地区へ着任した。インド国境沿いの南部タライ平野の穀倉地帯だ。バル・ジャナタ中高で、日本の中2、3年に相当する生徒に理科と数学を教えた。
独特の形状のデバナガリという文字で板書してネパール語で話しかけるが、生徒が「先生の発音は全然わからん」。国語の先生に習うとともに、必要に迫られ使っているうちに1カ月後には自然に話せるようになった。
数学はインドの影響を受け、驚くほど高度な内容もあった。しかし、暗記教育が横行し、解法を丸暗記するので、試験で数字を変えると答えられなかった。「応用できる教育に変えなあかん」。今は小学教諭が協力隊員として派遣されている。
標高8848メートルのエベレストを擁するネパールだが、現地は100メートルほど。亜熱帯で雪も降らない。郵便局の2階で下宿。ナイーブで素朴、ピスターリ(のんびり、ゆっくり)のタルー族の人柄にひかれていく。
また、別の民族が住む中間山岳地帯にも派遣され、40日間合宿し、約40人の小学校教員に指導法を教えた。
多民族国家の同国で、タルー族(約180万人)は全人口の6・6%。長年をかけてタライ平野で農地を開拓し、マラリアを根絶すると、上級カーストのインド・アーリア系民族が移住してきた。
「土地をだまし取られた」。各家庭を回ると何度も聞かされた。ネパール語の読み書きができない住人たちだ。貧困家庭では、地主らに売られる10歳未満のカムラリ(債務奉公少女)もいた。憤りを感じた。
女性の自立を支援するため、赴任先の校長や同僚らがタルー族福祉委員会を結成した。
任期の2年が終わり92年7月に帰国したが、12月に再び現地へ。委員会を手伝うためだ。以来、年に2回、現地を訪ね、8〜14日間滞在する。委員会が始めた夜間の識字学級や裁縫の職業訓練などの運営を支えている。「あっという間の四半世紀でした。信頼できる友人が現地にでき、私も信頼してもらえるから続いているのだと肝に銘じたい」
左近さんはネパール名を持つ。「プレーム・バハドゥール・ライ」。今では親友となった同僚らから赴任時に授けられた。「愛する、優れた勇者」を意味する。
識字学級で「名前書けた」
ネパールの15歳以上の識字率は男71・6%、女44・5%(2012年)。貧困層の多いタルー族はさらに低いとみられる。学校にも行かず、農作業や家事をする女性が目立つ。読み書きや計算力が生きる力となる。
タルー族福祉委員会の識字学級で学んだ女性は「名前を書けるようになってうれしい。恥ずかしいという気持ちがなくなったし、計算もできるようになった」と喜んだ。夫に先立たれた2児の母親(24)は裁縫訓練に通い、「苦しい人生を幸せな人生にかえていきたい」と話した。
識字学級は延べ1万6000人が学び、職業訓練は延べ1000人が受講。日本からの支援が頼みの綱だ。問い合わせは、委員会の日本事務局を務める左近さん(077・551・0574)へ。
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