Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/31ef6c056f9b5ffed50f01bb400212ee0d444e13
女性としてエベレストに世界で初めて登頂した田部井淳子さん(1939~2016年)の実話を映画化した「てっぺんの向こうにあなたがいる」(吉永小百合主演)が公開中だ。天海祐希演じる相棒の女性記者のモデルは読売新聞の先輩、北村節子さん(76)である。2人の山旅、人生の旅について聞いた。 【図】一目でわかる…エベレストを取り巻く問題、こんなにある
同期記者で女性は私だけ、いきなり社会部配属
――映画をみて、驚きました。北村さんは社内で山岳記者としても知られていましたが、あれほど田部井さんと人生を共にしていたなんて。
北村 そう。どっぷり。
――「せっちゃん」と呼ばれていたそうですね。
北村 私は、人前では「田部井さん」、2人の時は「淳子さん」。フランス語で遠慮のない人に使う「tu(テュ)」のような「あんた・私」の間柄でした。入社した1972年の夏、「日本女子隊にエベレスト登山許可」と報じる記事を読んだことが始まりです。女だけでエベレストに登るなんて! 好奇心からすぐ奥多摩で合宿中の女子登攀(とうはん)クラブを訪ねました。
――新人らしくフットワークがいいですね。
北村 今から思うと私、あの頃ね、女に飢えてたの(笑)。同期の記者は30人ほどだったかな。女性は私1人。しかも研修を終えた男の記者は地方に赴任したのに、「女を支局に出せると思うのか!」という時代で、いきなり社会部に配属された。今みたいにパソコンもなく、出先の記者が電話で送ってくる原稿を鉛筆で筆記するのが最初の仕事でした。社会部はみ~んな男。しかも年上。あなたがもし女の中に黒一点だったらどうよ。
惚れた話しっぷり
――初対面の印象を田部井さんは、〈化粧気のない私たちの集まりに、目元パッチリ描いた美女登場である。当時流行のミニスカート(中略)一瞬私は「コヤツ、ナニモノ」と思った〉と書いています。
北村 ジーパンだった気がするんですけど。好きなイヤリングをしていたのがチラッと見え、「コヤツ」と思われたかもしれない(笑)。
一方で私はといえば、筋骨隆々の猛者の集まりかと思ったら、その辺のお姉ちゃん、おばちゃんと変わらないように見え、正直「この人たちで大丈夫?」って思った。
でも話すうちに、子持ちの隊員の一人である田部井さんの話しっぷりに惚(ほ)れたわけ。当時の女の人はね、結論はむにゃむにゃ、遠慮しいしいの物言いが多くて、私はそれが嫌だったの。でも田部井さんは、言葉の最後にしっかり「。」をつけるようにきっぱり、よく通る声で朗らかに話す。
彼女を丸ごと知りたくなり、4日後に自宅に押しかけた。そしたら「よく来た、よく来た」と例の声で迎えてくれ、30分だけと言ったのに3時間半も話し込んだ。
それから数日後、「私も隊員としてエベレストに連れて行ってください」と申し込んだの。成功したら山岳史に残る場面を目撃できる、という記者的野心もあった。
――登山の経験は?
北村 山国育ちで、中学の学校登山で御嶽山に登ってから山好きに。冬山登山を始めたくらいの段階でしたが、やる気を認めてもらいました。
あっちこっちに寄付依頼
――3年後の75年5月17日、読売新聞夕刊1面トップに「日本女性隊、エベレスト登頂 世界初の快挙、国際婦人年飾る」と見出しが躍る。田部井さんの写真とともに北村さんら隊員14人の顔写真も並んだ。登山隊での役割は?
北村 遠征隊はなんの後ろ盾もない貧乏所帯。私は渉外担当になり、田部井さんとあっちこっちの会社に寄付依頼に行きましたよ。
でもね、「女がエベレストだと! 何考えてんの」というのが大方の反応で、子持ちがいるとわかると大変。当時は、子供を保育園に預けるのさえかわいそうという風潮があり、「子を置いて山登りとは論外だ」という言葉をシャワーのように浴びました。
ところがですね、ありがたいことに読売新聞と日本テレビが計1500万円出してくれ、それを機に寄付と個人負担で計5000万円ほど調達でき、私も6か月の長期休暇をとって遠征に行きました。
リアルな南北問題入門
――記者4年生。仕事も慣れてきた時期ですね。
北村 私は今でも初めての海外がパリやロンドンでなくてよかったなと思ってる。その後、婦人部(現生活部)に異動し、衣食住から育児、介護、女性問題などを取材するようになりましたが、この遠征で、なんていうのかな、自分の考え方の基ができたような気がします。
麓まで隊の荷物を運ぶのは当時最貧国の一つだった現地ネパールの人たち。最終的に500人を超えるポーターを雇う仕事も担当した。中には赤ちゃんを抱く女の人もいて、30キロ前後の荷を担いで歩く。しかも野宿。当時のレートで日給は約450円。「私たちのためにこの人たちを使っていいのか」。胸が痛んだけれど、彼らにとって荷物運びは貴重な収入源でもある。リアルな南北問題入門でした。
――田部井さんが登頂した時はどこにいたんですか。
北村 第1キャンプから第2キャンプに荷上げ中で、トランシーバーから興奮気味に「登頂の報告がありましたー。北村さーん」と叫ぶ声が聞こえた。その瞬間、記者の山っ気なんか吹き飛び、みんなでやってきてよかった、と感動の波に襲われました。
――自然はどうでしたか。
北村 恩寵(おんちょう)的体験でした。今、エベレストは登山者が行列を作ってますが、当時は見渡す限り人っ子一人いない。宇宙に通じる深い空、これ以上の白はない雪。クレバスの奥のインクを溶かしたような氷の蒼(あお)さ。そんな中にポツンといると、生かされているなあ、と「奇跡としての自分」を感じましたね。
――映画では、登頂できなかった隊員と田部井さんとの確執も描かれました。
北村 あれはどんな隊でも多かれ少なかれあること。私から見れば、田部井さんが強かったから登っただけ。それに、隊の母体となった女子登攀クラブは同人組織で一般の山岳会よりも「我こそは」と考える人が集まりやすい。それが高山病にやられ、雪崩で補給路が断たれ……鬱屈(うっくつ)がたまっていたのが真相です。
しかもメディアは登頂者ばかりに注目する。そこで田部井さんが「これはみんなの業績で、たまたま上に行ったのが私の手足なんです」って言うと、「また、きれいごとを言って」と反発もされた。
でも、そうした不満は一時のことで、今では仲間たちの回想ネタの一つですけどね。
映画ほど上品じゃなかった
――登頂から50年です。
北村 女だけで登攀手順を作成し、実行できたのは、みんなの宝です。それは同輩や女子登攀クラブの後輩たちの歩みを見てもわかります。
結婚、出産して家業を継ぐ人もいますし、「アフガニスタンで医師中村哲さんのチームに加わる」「アジアからきた不遇な女性のシェルターを運営」「ネパールにわたり現地男性と結婚、両国関係に尽力」といった人もいます。クラブの何回かの遠征は「結婚、出産」というほぼ一択しかなかった70~80年代の娘っ子に、「それ以外」への道を開く修練場でもありました。
――そして田部井さんは92年に女性で世界初の七大陸最高峰の登頂者に。特集面の署名記事で北村さんは「育児、家事の間に、時間とお金を工面して、どうにか登り続けたら、その結果がこういう形になった」という田部井さんの言葉を伝えています。
北村 マッキンリー、南極など4峰にも同行し、休暇をたくさん取る困った記者だったと思いますが、山とのかかわりで書けた記事も多く、私にとっては実り多い両立でした。思い返すと、雪や氷との格闘や荷上げのつらさもあったけど、ことがなった暁にはみんな黄金に変わりました。
――映画でもテント内で吉永さんと天海さんが思い出を語る名場面がありました。
北村 私たちはあんな上品じゃなかったかも(笑)。「あのオヤジがわからずやでさぁ」「わかる、わかる!」みたいな会話も多かった。テント内は荷物でギューギューだから「ちょっと足どけてよ」なんて言いながらね(笑)。
きたむら・せつこ 1949年長野県生まれ。お茶の水女子大卒。読売新聞では社会部、婦人部、地方部、電波報道部などを経て調査研究本部主任研究員。2008年、法務省中央更生保護審査会委員に就任。16年、高エネルギー加速器研究機構の監事になり、20年に退任。


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