2020年1月8日水曜日

法務部を嘲笑うかのように「外国人季節労働者」の賃金を取上げる国内外ブローカー

Source:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200106-00035380-hankyoreh-kr
1/6(月) 、ヤフーニュースより
国内と海外の自治体間の業務協約を結ぶ際、国内外のブローカーが介入 飛行機運賃と仲介手数料など移住労働者に転嫁して搾取 法務部「斡旋および手数料徴収の事例が確認されれば、該当自治体に不利益を与える」 
 フィリピンのサンタロサ市出身の労働者Aさん(32)とBさん(35)は昨年9月、法務部の「外国人季節労働者プログラム」を通じて入国した。農繁期の農・漁村で働く出稼ぎ労働者たちに3カ月間の短期就業ビザを発給する制度だ。二人は全羅南道海南郡(ヘナムグン)で、コメと白菜を収穫する仕事をして受け取った給料175万ウォン(約16万円)のうち、宿泊費25万ウォン(約2万3千円)を雇用主に支払った。ところが、通帳では残ったはずの給与150万ウォンの半分の75万ウォン(約6万9千円)がなくなっていた。理由を調べると、75万ウォンが韓国人ブローカーの口座に振り込まれていた。海南郡庁に問い合わせたところ、出国前にサンタロサ市と不法滞在を防ぐため契約書で合意した事項で、帰国後に精算すると聞いているという答えが返ってきた。しかし、AさんとBさんがフィリピンの仲介業者と署名した契約書には、そのような内容はなかった。結局、Aさんは3カ月分の給料の半分の225万ウォンを、Bさんは2カ月分の給料の半分の150万ウォンをもらえず帰国した。

 法務部が2015年に外国人季節労働者プログラムを導入し、国内外のブローカーの介入を禁止しているが、現場では彼らが介入して移住労働者の賃金を搾取することが依然として頻繁に起っている。

 外国人季節労働者プログラムは、2015年10月のモデル事業を皮切りに2017年から本格化した。昨年だけで11月まで3211人の移住労働者がこの制度を通じて入国した。国内と海外の地方自治体が業務協約を結び、人材を交流する方式で進められる。法務部の「2019年度外国人季節労働者プログラム基本計画」によると、自治体の申請要件には、業務協約の時、国内外のブローカーの介入や仲介があってはならない▽ブローカーが斡旋費用をもらってはならないなどが明示されている。

 しかし、ブローカーの介入は依然として変わっていない。京畿道抱川市(ポチョンシ)では昨年6~7月に入国したネパールのパンチャプリ市出身の外国人季節労働者41人のうち18人が帰国せず、離脱した。抱川市やパンチャプリ市が業務協約を結んだ際、移住労働者が民間ブローカーに飛行機代や仲介料を支払っていたが、3カ月しか働けなかったことが離脱の原因とされた。イ・ヘギョン培材大学教授(公共人材学部)が2018年12月に発表した「外国人短期季節労働者制度の実態分析と総合改善案の研究」でも、調査対象自治体29カ所のうち、5カ所がブローカーを通じて移住労働者たちを紹介されていた。ある韓国人ブローカーは、ハンギョレの電話インタビューで「自治体同士が業務協約を結ぶ際、ブローカーが間に入らないところはないだろう」と語った。

 サンタロサ市の事例でも、フィリピンと韓国人のブローカーが、自治体間で協約を結ぶ段階から介入していた。しかし、海南郡庁は「サンタロサ市が選定した業者なので、具体的な契約内容までは把握していない」と釈明した。法務部の関係者は「斡旋および手数料徴収事例が確認されれば、該当自治体に翌年度の外国人季節労働者配分を除外するなど、事後制裁を強化している」と述べた。

カン・ジェグ記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr)

家父長制社会と闘う「カンフーシスターズ」 インド

Source:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200106-00000008-jij_afp-int
1/6(月)、ヤフーニュースより
【AFP=時事】カンフーを習得するヒマラヤ(Himalaya)地方の尼僧たち「カンフーシスターズ」は、武術を通して、家父長制社会における女性の役割をめぐる固定観念と闘っている。

【写真】圧巻!カンフーシスターズの演武

「ヒマラヤ山脈では女性は平等に扱われず、平等な機会も与えられていない…だから私たちは女性の権利を向上させたい」と、尼僧のジグメ・コンチョク・ラモ(Jigme Konchok Lhamo)さん(25)はAFPに語った。「カンフーは男女平等を訴えるのに役立っている。私たちは前よりも自信を持ち、体力的にも精神的にもより強くなった」

 カンフーを学ぶ尼僧らは、ネパールにある尼僧院「Druk Amitabha Mountain Nunnery」からやって来た。由緒あるチベット仏教の学校に在籍している。

 チベット仏教カギュー派の高僧ギャルワン・ドゥルクパ(Gyalwang Drukpa)師は2008年、仏教界に男女平等をもたらす取り組みの一環として、女性にカンフーを習得するよう促し、女性や少女が僧院から離れることや祈りを執り行うこと、一人前の聖職者になることを禁じる伝統的な規範に挑戦するよう奨励した。

 ラモさんは12歳の時、家族からの強い反対を振り切って尼僧になった。少女たちのための啓発活動を認められ、昨年の秋、米ニューヨークで国際賞を受賞した。

「初めは多くの批判があった。私たちがおきてを破っているから、人々は好意的ではなかった」とラモさんは言う。

「でも、今は私たちが同じ場所(ネパール)に戻ると、多くの好意的な反応を受け取る」という。「私たちは学校に招待される。彼らは女子学生らを前に、男子学生らを後ろに座らせる。女子学生にも男子学生と同じように、私たちに質問し話す機会を与えている」 【翻訳編集】 AFPBB News

インド「王家の末裔」の隠された真実─歴史に翻弄された一家の物語

Source:https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200103-00000004-courrier-int

1/3(金)、ヤフーニュースより

北インドでかつて栄えたアワド藩王国(1724~1856年)──その王族の末裔だという一家が、インドの首都デリーの廃屋となった遺跡に暮らしていた。

森の中で隠遁生活を送る彼らの正体は謎に包まれ、40年もの間、世界各国のメディアが彼らの真の姿を明らかにしようと取材を続けてきた。

そしてついに2019年、米紙「ニューヨーク・タイムズ」の記者エレン・バリーがこの一家の謎を明らかにした。2016年の春、アワド王家への取材が許されたのだ。

歴史に翻弄された家族の物語を、長編のルポでお伝えする。
デリーの街の大いなる謎のひとつ
2016年のある春の午後、まだインドで働いていたとき、デリー中心部の森に住んでいた一人の隠遁者から、電話で伝言メッセージを受け取った。アワド王家への取材が許されたのだ。

アワド王家の存在は、デリーの街の大いなる謎のひとつだった。彼らについての物語は、オールドデリーで働くお茶売りや三輪タクシーの運転手や店主たちの間で伝わっていた。彼らによれば、都市から切り離された森の中の宮殿に、母親と娘、息子の3人が住んでおり、彼らは有名なシーア派イスラム教徒の王家の血を引く最後の末裔なのだという。

この王家の末裔に関する物語は、話を聞く相手によって異なっていた。ある人々は、 1856年にイギリスが王国を併合して以来、アワド王家は今の場所に暮らしており、宮殿を取り巻く森が成長するにしたがい彼らを飲み込んでしまったのだと言う。また別の人々は、彼らがアラブの民間伝承の超自然的な存在であるジン(精霊)の一族であると言う。

かつて望遠レンズを覗いて王女の姿を垣間見た知人によれば、その髪は長い間伸ばし放題で洗髪もしていない状態だったので、枝が敷き詰められた地面に毛が抜け落ちていたという。

ひとつ確かなのは、彼らが同伴者を望んでいないということである。彼らは14世紀の狩猟用ロッジとして使われていた建物に住んでおり、有刺鉄線に囲まれ、凶暴な犬たちに守られていた。敷地の境界には、恐ろしい標識が貼られていた。そこには「侵入者は射殺するものとする」と書かれていた。
この一族は数年おきに、国家に対して彼らが抱いている不満を、1人の記者に(常に外国人だった)話すことを承諾していた。これらの記者たちは、非常に興味深い不気味な話を持ち帰り、私はそれを感嘆しつつ研究していた。1997年、王子と王女は英紙「タイムズ」に対し、母親がイギリスとインドによる裏切りに抗議する最後の意思表明として、砕いたダイヤモンドと真珠を混ぜた毒を飲んで自殺したと語った。

これらの物語がこんなにも心に響く理由が私にはわかっていた。この国には、イギリスによる制圧の只中でなされた謀略から、「分離」として知られる、パキスタンをインドから切り離し、ヒンドゥー教徒とムスリムの間に暴力的な動乱を引き起こしたイギリス領インド解体における大量虐殺にいたるまで、トラウマが深く刻まれているからである。

この一家は、自らの荒廃ぶりを示すことで、インドがこれまで苦しんできたあらゆることを、身を以て示しているのだ。
一家の姉と弟を撮影した、粒子の粗い写真がいくつか公開されつつあった。彼らは美しく、青白く、気品ある顔立ちをしていたが、どことなく荒んでいて、虚ろな表情をしていた。

取材許可のメッセージを受け取った翌日、その番号に電話してみた。数回鳴った後、誰かが電話に出ると、私は電話越しに甲高く震えるような声を聞いた。
小さな妖精のような王子
次の月曜日、私は指示された通り、運転手に午後5時30分に森の中へ連れていくよう頼んだ。

この森自体は少し不思議な、2000万人が住む都市の真ん中にある低木密生林だった。イギリスの植民地将校たちが19世紀にメスキートというマメ科の低木を植えると急速に広まり、牧草地、道路、村など、当時その周辺にあったものすべてを飲み込んでいった。生物学者は後にそれを「外来種」による「大規模な侵入」と説明することになるだろう。

木の天蓋がかき乱され、充分な厚さとなって光を遮るまで、私たちはさらに先へと進んだ。
電話口の人物は、道路の隅にあるインドの軍事施設で使われているような高い壁の横に車を残し、1人で来るように言っていた。私はこのことに驚かなかった。アワド王家の人たちは、よく知られるように、インド人と会うことを拒んでいたからである。私は運転手に離れて待つように頼み、どこかぎこちなく森の中に立ち、ノートを手に持って、この後何が起こるのか考えていた。

それから茂みがガサガサと音を立て、1人の男性が現れた。

彼は小さな妖精のようで、ハイウエストのジーンズを履いていた。頬骨が高く、頬骨の周りは痩せ落ちていて、ふさふさ立ち上がった灰色の髪がでたらめに生えていた。

「サイラスです」と王子は言った。電話で聞いた甲高い声だった。彼は一気に話した。ほとんどの時間を1人きりで過ごしてきた人のようだった。

それから彼は背を向けると、私を森の中へと導いた。遅れをとらないようにと思いながら、根と棘がもつれたものを越えて歩き続け、以前、狩猟小屋として使われていた宮殿へと連なる巨石の階段を登った。建物は半ば崩れ落ちており、外の空気にさらされて、金属格子に囲まれていた。 1本の鉄の棒がゆるんでいて、王子はそれを大きな音を立てて脇へ動かし、私たちは彼らの家へ入ることができた。
私は真鍮製の植木鉢の中にヤシの木が立ち並び、かつては上品だった色あせたカーペットが敷かれた中世の壮大な控えの間に足を踏み入れた。壁には、おびただし暗いローブに包まれた王子の母親を描いた油絵が掛けられており、忘我の境にいるかのようにその目は閉じられていた。

王子は景色を見せようと私を屋根まで案内してくれた。私たちは建物の端で立ち止まり、緑の梢から、熱気の中でチラチラゆらめく埃っぽい街を見つめていた。

他の大都市は遺跡の上に建てられているかもしれないが、デリーという都市は遺跡でできている。 700年前の墓や500年前の砦に躓かずして、ある地点から別の地点に行くことはほぼ不可能なのである。

7代にもわたるイスラム王朝がここに首都を建設し、その王朝時代が終わればその場を追放された。こうした遺跡の数々は、現代を支配するシステムである民主主義、スターバックス、ヒンズー教のナショナリズムなどが、インドの歴史においてはほんの一時的なものに過ぎないことを思い出させてくれる。これらの遺跡は「我々はここにいたのだ」という囁きとともに、今でも息づいているように見える。「これは、私たちのものだったのだ」と。
彼の家族について尋ねると、彼はイギリス政府とインド政府の不実について、生き生きとしたスピーチを始めた。

私はそのスピーチの中に、「ワシントン・ポスト」、「ニューヨーク・タイムズ」、「シカゴ・トリビューン」、「ロサンゼルス・タイムズ」の同僚が書いた記事が引用されていることに気づいた。彼は、ある犯罪集団による迫害を訴え、少し怒鳴り散らした。アワド王家の衰退について語りながら、彼は両手を大きく放り出し、叫び声を上げ、それから芝居がかったような囁く声になった。

「僕は縮こまっている」と彼は言った。 「僕たちは縮こまっている。王女は縮こまっている。僕たちは縮こまっている。」

取材内容を記事にしてもいいかと尋ねると、彼は急にしぶった。そうするには、デリーにいない姉のサキナ王女の許可が必要なのだと彼は言った。私はもう一度出直さなければならなかった。

しかし、私はこのことを奇妙に感じた。

記事に書かれたくないのに、なぜ記者を呼んだのだろうか。
事の発端
物語は、彼の母親から始まった。彼女は、1970年代初頭のニューデリーの駅ホームに、どこからともなく現れ、自身をアワド藩王国のベーグム(インドやパキスタンの高位のイスラム教徒の女性)であるウィラヤットだと名乗った。
アワド藩王国は、もはや存在しない王国である。イギリスが1856年に併合し、首都ラクナウはそのトラウマから決して立ち直ることはなかった。街の中心部は、今でもアワド藩王国時代の丸天井の神殿や宮殿から成っている。

ウィラヤットは、これらの財産が彼女に返還されるまで、駅を離れないと宣言した。彼女はVIP用の待合室に落ち着き、家財すべてをそこに積み下ろした。カーペット、鉢植えのヤシ、銀のティーセット、制服を着たネパール人の召使たち、光沢のあるグレートデーン犬たち。彼女には2人の成長した子供、アリ・ラザ王子とサキナ王女もいて、ともに20代くらいだった。彼らはウィラヤットのことを「殿下」と呼んでいた。

ウィラヤットは人目を引く女性で、背が高く肩幅も広くて、イースター島の像のように厳つくて動じない顔をしていた。暗い色の重たいシルクのサリーを着て、折り目にピストルを所持していた。彼女とその子供たちは、赤いプラスチックの椅子に落ち着き、待っていた。何年もの間。

「座っていたよ、ヨガの修行者のようにね」と、駅で食料を配給するカトリックの慈善活動家であるジョン神父は、当時を思い返した。子どもたちは奇妙なほど従順で、母親の許可なしにバナナを受け取ることすら気が進まないようだった、と彼は言う。

「彼らは犬よりも従順でしたよ」と彼。「彼女の絶対的な管理下にあったのです」

ウィラヤットのふるまいは、横柄で芝居がかっていた。彼女は直接会話することを拒否し、質問をエンボス加工された便箋に書き、銀の大皿に置き、召使がそれを声に出して読むよう要求した。駅長が彼女に対して何らかのトラブルを起こした場合、蛇毒を飲んで自殺すると脅した。
「ネパール人の召使たちは、命令されれば膝立ちで歩いただろう」と当時彼らについて追求していた歴史家のサレム・キドワイは言う。

政府当局は、彼女の住まい探しに駆けずり回った。彼女はメディアから注目を集めており、もしもラクナウに住むシーア派の人々が、彼女が虐待されていると信じた場合、市民たちの不安が爆発する可能性があることを、当局は恐れていたのである。

「非常に空想を掻き立てられるイメージだったのです」とキドワイ氏は言う。「城から出た彼女が、今は鉄道の駅舎に住んでいるというね」

ウッタル・プラデーシュ州の州長補佐官であるアマー・リズヴィは、連絡係としてニューデリーに派遣された。彼は、ラクナウで生活を始められるよう、1万ルピーの入った封筒をウィラヤットに渡したことを思い起こした。

「1975年当時、それはかなりの金額でした」と彼は振り返る。「ですが、彼女は怒って封筒を投げました。お金があたりに舞い、広報担当官はあちこちにお札を拾いに行かなければなりませんでした。彼女はノーと言い、金額が少なすぎるためその場を動こうとしなかったのです」

その後の数ヵ月で、リズヴィ氏はラクナウにある4人用の住宅を受け入れるようウィラヤットを説得しようとしたが、それでは小さすぎると言って拒否した。

彼は心配になってきた。イスラム教徒たちが結集しつつあったのである。かつてリズヴィ氏が1年に一度おこなわれる喪の儀式ムハッラム(ヒジュラ暦における1番目の月)を訪れたとき、彼女は気がつくと巡礼者たちに囲まれており、彼らがカミソリの刃が取り付けられた鎖で自らを鞭打っているのを目にした。

「通りがかった人たちが気の毒でしたよ。彼らはこういう全てのことを見ていましたから」と彼は言う。「あたり一面、血の海でした」
この頃ウィラヤットは、自らの主張を通すため、はるかに効果的な方法を見出していた。外国の特派員を使うことである。

1981年に「鉄道駅舎を統治するインド王女」という記事を書いた「タイムズ」紙の特派員は、ウィラヤットのことを「先祖の名誉を回復し、何世紀にもわたる苦しみを引き起こしてきた過ちを正し、正義を手にするため、正真正銘身を捧げているのだ」と記した。雑誌関係者らは、「アワド藩王国の最後のナワブの子孫がどのように扱われているのか、世界に知らしめよう」と言明する彼女の姿を記録した。

外国の特派員が次々と到着し、記事の読者たちは世界の隅々から、彼女に代わって怒りを表明する手紙を送ってよこした。ウィラヤットは、厳しい条件を課した──彼女の写真は「月が欠けている時しか撮ることはできない」と「ユナイテッド・プレス・インターナショナル」誌は報告している──記者たちはそれに従い、こうしたあらゆるゴシック的な特徴に浮き足立っていた。

1984年、ついに彼女の努力は報われることとなる。インディラ・ガンディー首相は彼女たちの主張を受け入れ、マルチャ・マハルとして知られる14世紀の狩猟用ロッジの使用を認めたのである。彼女たちが駅舎を出る時、最初にそこに現れてから約10年の月日が経っていた。その後、ウィラヤットは二度と公の場に姿を現わすことはなかった。
詐欺師一家という評判
私とサイラスが会話を交わすようになっておよそ9ヵ月が経った頃、私は北部インドの大都市、アワド王朝の発祥地であるラクナウを旅行した。この件とは関係のない話で、探偵たちに取材するためにラクナウにいたのだが、1970年代にサイラスが母親と姉と一緒にこの場所に住んでいたことを知っていたので、アワド藩王国の子孫が住んでいると聞いていた場所へ向かったのである。

驚くべきことに、そこでは昔からの住人たちが、サイラスやその家族のことを覚えていた。しかし、彼らが私にほとんど余談のようにして語ったことによれば、サイラスらは詐欺師としてこの場所を追放されたのだという。ナワブが亡命中に亡くなった場所であるカルカッタに住むアワド藩王国の子孫たちも、サイラスらの主張を否認していた。

そして、サイラス自身が答えることができないように思われる質問の数々があった。彼はどこで生まれたのか? 彼の父は誰だったのか? それはともかくとして、ダイヤモンドはどうやって粉砕したのか? といったことである。

彼の姉であるサキナ王女は姿を現さなかったが、彼は彼女が一家について記録していた本を渡してくれた。この本はほとんどが読解不可能で、ランダムに大文字表記があり、句読点がなく、ごてごてした黙示録的な散文で書かれていた。

しかし、このとりとめのないテキストには、姉弟間の真の優しさの閃きがあった。まるで、救命ボートで一緒に座礁した2人の小さな子供のようだった。

サキナは母親を追って自殺するつもりだったが、弟のために生き残った、と書いている。彼の将来への問いかけが、彼女を執拗に苦しめた。「私の弟サイラス・リザ王子、彼はこの後どんな道を歩けばいいのだろう?」という問いかけだった。「私の静かな誠実たる沈黙が望むのは、王子が幸福に恵まれるべきだということだ」
ある夜、サイラスから電話があり、彼は聞きとりにくい声でわめきながら、実は姉は7ヵ月前に死んでいたことを告げた。彼は遺体を埋葬し、誰にも言わなかったのである。彼は何ヵ月もの間、私に嘘をついていたわけだが、そのことを少し恥じているように思われた。私は娘の二段ベッドで丸くなって、電話口に彼の声を聞いた。彼は、二度と訪れないでほしいと言い、とても孤独であるとも言った。

私は数日待ち、マクドナルドのフィレオフィッシュを持ってサイラスの元を訪れた。私たちの関係は再び結びついたようだった。彼から銃とガールフレンドを調達するように頼まれたが、私は応じなかった。防水シートと「屋根の上のバイオリン弾き」の録音を持っていくことには応じたが。彼は1960年代に遡ったかのようなポップカルチャーへの言及をしばしばし、気遣わしく少々おセンチだった。

一度、頬にキスをするよう頼まれた。彼の肌はティッシュペーパーのようにもろく感じられ、彼はキスされるのは10年ぶりだと言った。「君がここにいるとき、僕の心はソフィア・ローレンの『ズビズビズー』みたいになるよ」と彼。

彼は、私が事細かに書きすぎなければ、彼について何らかの記事を書いてもいいとさえ言った。

「真実を書かないと」と私は言った。

「そうだね、君は真実を書かなければ」と彼は言った。「じゃあもう一度、ハリー・ベラフォンテの『バケツの穴』を歌おうよ」

私たちはこうして15ヵ月もの間話をしていたので、その後すぐにインドを離れてロンドンで新しい任務に就くことになっていた。こうしたやり取りが、最後の会話のバランスを整えた。私は彼の起源に関する何かを、彼自身の口から明らかにしてもらおうと思っていた――本当に、何でもよかったのだ――そして彼は、私から身をよじるようにして逃げていた。

「あなたってミステリアスな人よね、だって私はあなたが何者なのか知らないんですもの」とかつて私は言った。彼は照れくさそうに答えた。

「ああ、そうかな」と彼は歌うような声で言った。「うん、まあね。本当にそうかな? 君が僕にミステリアスだと言ったとしても、僕は君の前にただ座っているだけだよ」

ロンドン行きの飛行機に乗る数時間前、サイラスと交わした最後の会話で、彼はもし自分が死んだら、どうやってそのことを私に知らせてもらうことが出来るだろうかと聞いてきた。私は、自殺するつもりなの? と尋ねた。

「今のところ、まだ自分を保存しておくつもりだよ」と彼は言った。

「それがいいわ。じゃあ、また会いましょう」と私は言った。

彼に別れのハグをしたように思う。侵入者から身を守るためのガチャンと音のする鉄製の棒を取り替えている姿が、最後に見た彼の姿だった。【つづく】
Ellen Barry

カレーのジャンルがやたら「細分化」している訳

Source:https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200103-00321733-toyo-soci

1/3(金)、ヤフーニュースより

 スパイスカレーに、スープカレー、スリランカカレー、ベンガルカレー……。

 近年、カレーのジャンルの多様化・細分化が著しい。インドカレーに絞っても圧倒的多数の北インド料理に加え、進境著しい南インド料理、さらには東インド料理(ベンガル料理)や西インド料理の専門店まであって驚かされる。

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 なぜこうしたカレーの多様化・細分化が進んでいるのか。カレー文化の成熟と言ってしまえばそれまでだが、それにしてもここ何年かで、その動きは加速しているように感じる。
 「2006年頃に1つのターニングポイントがあったんです」と話すのが、インドのローカルなカレーが日本でまだほとんど知られていなかった1990年代から、著書などでその魅力を紹介してきた料理研究家・渡辺玲氏だ。

■南インド料理ブームがきっかけ

 「確かに昔はカレーのジャンルといえば日本のカレー、欧風カレー、インドカレー、そしてその他エスニックカレーといった3~4つぐらいのくくりで語られることがほとんどでした。それが最近はテレビや新聞など大衆向けのメディアでも、スパイスカレーや〇〇インドカレーなど、細分化されたジャンル名を普通に目にするようになりました。
 その背景には複合的な要因が考えられますが、インドとその周辺国の料理に関しては、きっかけの大きな1つとなったのが、2006年頃から起こった南インド料理ブームではないでしょうか」(渡辺氏)

 南インド料理はそれまで、日本ではほとんど知られない存在だった。しかし2006年頃から、「巷で主流のこってりした北インド料理に比べ、南インド料理はサラッとしていて野菜豊富でヘルシー、色彩豊かで、ごはんで食べる」といった文脈で、雑誌『dancyu』をはじめメディアに取り上げられるようになる。数えるほどしかなかった南インド料理専門店の中から、東京のダバ インディアなど大成功する店も出始める。
 以降、南インド料理専門店は年々増えていき、今や都内だけで50店以上もある。

 2010年代に入ると南インド料理以外にも、ネパール料理、スリランカ料理、パキスタン料理、さらには東インド料理、西インド料理など、それまではほとんど目立たなかったインドおよびインド周辺国のローカル料理の専門店も増えていった。

 「南インド料理の成功により、よくある北インド料理以外にもインド料理にはフォーマットがあるんだと、気づいた人が多かったのでは。同時に、そうしたマイナーでディープな料理の面白さを理解できる人が増えた。だからこそ、ほかのローカル料理も受け入れられていったのだと思います」(渡辺氏)
■本音を言えば、“故郷の味”で勝負したい

 「お店を出す側のマインドの変化もあると思います。実は専門店が増える前から、パキスタン人やネパール人、バングラデシュ人などのお店はあったんです。でも多くは故郷の料理を前面に出さず、テンプレート化された北インド料理を出していた。

 その理由を彼らに聞くと、決まってこんなふうに答えます。『本当は自分の故郷の料理で勝負したいけど、それでは商売として成り立たない。だから“ナン、バターチキン、タンドリーチキン”という、多くの日本人がインド料理といえばコレと思うものを出している』。
 そうした状況が、南インド料理の成功や需要の変化を受け、変わってきている。要は、自分のアイデンティティーである故郷の料理で勝負しようという人が増えているんです」(渡辺氏)

 また、そこにはインターネットやSNSも大きく影響しているだろう。ネットがない時代には手に入りにくかったマニアックな情報が、ネットの発達でグッと手に入りやすくなった。さらにはインスタグラムなどSNSが広がったことで、より目新しいものや珍しいものが好まれ、取り上げられるようになった。さらに渡辺氏は、近年の「ヘルシー志向」の影響も見逃せないという。
 「南インド料理に限らずこうした各地域料理の多くは、主流の北インド料理よりも家庭的で胃に優しかったり、ローカロリーだったりします。そこも近年の食のニーズにマッチしたのではないでしょうか」(渡辺氏)

 「実はこうしたローカル料理の広がりは、インド国内でも見られます。例えば少し前までは、南インド以外の地域で暮らすインド人にとって、南インド料理は外国の料理に近い感覚で縁遠かったそうです。それが近年は、ヘルシーということでニーズが広がっていて、南インド以外の地域でも食べられるお店が増えています。北インド・デリーの朝食のビュッフェに、南インド料理が入っていたりするんですよ」(渡辺氏)
そして今、日本で最も勢いのあるカレージャンルといえば、スパイスカレーだろう。

 スパイスカレーとは一般的に、ルウや小麦粉から作る従来の日本のカレーに対し、ルウや小麦粉を使わずにスパイスと具材を組み合わせて作るカレーのことを指す。

 インドカレーの製法をベースとしつつも特定のスパイスを強調したり、和出汁や和食材を積極的に使うなど日本独自の解釈を加えたものが多く、南インド料理などの現地料理はスパイスカレーとはあまり呼ばない。要は日本独自のスパイシーなカレーだ。
■カレーが持つ本来の多様性を反映

 スパイスカレーといえば、メッカは大阪。2010年頃よりスパイスカレー的なカレーを出す店が増え、数年後には大阪ならではの自由でユニークなカレーとして、スパイスカレーが空前のブームに。そうして関西を中心に、スパイスカレーを出す店は爆発的に増えた。

 さらに近年は、東京のみならず、全国的にスパイスカレーの店が増えている。実感としても、ここ1~2年でスパイスカレーという単語を耳にすることが劇的に多くなった。
 スパイスカレーでよく見られるのが、1~3種類ほどのカレーと複数の副菜を所狭しとワンプレートに盛り付けるスタイルだ。そうしたスタイルは、いくつもの副菜とカレーを盛り合わせる南インド料理のミールスやスリランカ料理の影響も色濃いと言われる。

 「なんといっても興味深いのが、スパイスカレーの文化の混ざり方です。インドカレーの製法を採り入れたりしつつ、盛り付けや料理のプレゼン法はスリランカカレーを反映していたりする。さらにその根底には、日本人が愛してやまないカレーライス=カレーとライスを1皿に盛るスタイルがある。スパイスカレーは、カレーが本来持つダイバーシティー(多様性)を色濃く反映した食べ物とも言えるんです」(渡辺氏)
 そんな多様化著しいカレージャンルの中から、2020年に注目すべきものを聞いた。

 「今後さらに伸びる可能性があるジャンルの1つが、ベンガル料理です。ベンガル料理とは、東インドとバングラデシュにまたがるベンガル地方の料理のこと。そう聞くととっつきにくいかもしれませんが、実はごはんと合うカレーで、カレーにじゃがいもが入っていたり、魚を多用したりと、日本人の気質にけっこう合っているんです。日本で初めてインドカレーを提供したと言われる新宿中村屋のカレーも、ルーツはベンガル料理です」(渡辺氏)
ベンガル料理といえば、2019年にタブラ奏者のユザーン監修のもと、ベンガル料理のレシピ本『ベンガル料理はおいしい』(石濱匡雄 著)が上梓された。ベンガル料理専門店も年々増えていて、東京ではプージャー、アジアカレーハウス、ベンガルカレーファクトリー、トルカリなどが代表店に挙げられる。

■日本人オーナーの店にも注目

 「もう1つは、カレーのジャンルとは少し違うかもしれませんが、日本人オーナーシェフによるインド料理店です。近年はそうした日本人による日本人向けの専門店の勢いが、非常に目を引きます。出店した多くの人が成功している印象です。
 以前はそういうお店は東京中心で、地方では少し浮きがちでした。ところが最近は地方でも支持されているようで、今後もさらに数が増えていくのではないでしょうか。私の料理教室でも、カレー店を開きたいという生徒さんがとても多いです」(渡辺氏)

 ディープな現地カレーを味わいたいなら、ぜひインドやインド周辺国出身の人が故郷の味で勝負する専門店へ。それだとハードルが高いという場合は、日本人の視点からインドやインド周辺国の料理を突き詰める日本人オーナーシェフのお店へ。当代ならではの刺激を求めるなら、スパイスカレーのお店へ。もちろん欧風カレーや日本的なカレーを食べられるお店もたくさんある。
 日本にカレーが伝えられた19世紀半ば。その時代のカレーはイギリス式で、庶民にはなかなか手の出せないハイカラな食べ物だったという。それから約150年を経た令和の時代。次々と新しいカレージャンルが登場し、“まだ知らないカレー”と出会うワクワクを手軽に味わえる時代を、素直に喜びたい。
田嶋 章博 :ライター、編集者

来年こそは煩悩解脱!…無我の境地で「削仏プログラム」はいかが サクサクカリカリ…雑念を削ぎ落とす

Source:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191231-11002491-maidonans-life
2019/12/31(火)、ヤフーニュースより
 一年を振り返る年の瀬です。せわしない中、ふとすると、あの時ああすれば良かった?それとも…と年内の様々な後悔が押し寄せてくる時でもあります。来年こそは煩悩解脱、静かに内なる自分と向き合いたい…そんな人はフェリシモ(神戸)の、家で習い事シリーズ「ミニツク」から発売中の「スクラッチアート 削仏プログラム」はいかがでしょう。まず、黒いシートに描かれた下絵の仏さまの絵を、専用のペンでなぞって削ります。すると描線に沿って、美しい金銀のホログラムの仏さまの姿が次第にあらわれてきます。サクサク、カリカリ…筆先に意識を集中すればするほど雑念は晴れ、早い人なら20分足らずで尊い仏さまの姿絵が完成します。

【写真】煩悩に向き合う「お説法」も、毎月付いてきます

 同プログラムはフェリシモ公式の社内部活「フェリシモおてらぶ」が企画開発。同部は今まで「プチ写仏プログラム」など、気軽に日常にお寺文化を取り入れられる商品を手がけてきました。今回のプログラムは6ヶ月間かけて、1月4枚ずつ、計24枚の削仏作品を制作。集中して削仏に取り組むことで、日ごろとらわれがちな心配や過去の悔やみからひとまず距離を置き、「今ここ」に意識をもどしていただこう、という目的があるといいます。

 また真言宗の現役僧侶であり、仏教美術専門店「多羅堂」(大阪)代表である杉山本學(すぎやま ほんがく)さんが監修したテキストも毎月セットに同封。人を苦しめがちな6つの煩悩に一つ一つ向き合っていくすべを説くお説法や、仏さまにまつわる雑学などをご紹介。さらなるお寺文化の深みに触れることができるよう、配慮されています。

 家庭に送られてくるセットの中には、削仏するための専用ペンのほか、完成した作品を飾れるディスプレイ額や、ひものお香もついてきます。削仏の作業をする際により集中できるようにとの心づかいです。ちなみに、ひもの形状をしたお香は日本では珍しいですが、ネパールではポピュラーだそう。このあたりからも異国文化の雰囲気が伝わってきます。

 「削仏」の手順は以下の通りです。

(1)まず平らな場所に下敷きとなる布や新聞紙などを敷く
(2)その上に好きなスクラッチアートシートを選ぶ。お香をセット
(3)シートの上に書かれた仏絵の線をスクラッチペンでなぞり、削る。筆先を寝かせるように滑らせると幅広の線を削ることができ、先端を立たせるように描画すると鋭く細く削ることができる
(4)削るにつて〝削りカス〟が出るので、その都度捨てて、完成
(5)台紙に貼りお部屋などに飾る

   ◇   ◇

 プログラム開発の経緯などについて担当者に聞きました。

―企画の経緯について教えてください。

「もともと、『プチ写仏』という仏さまの絵を筆ペンでなぞる商品があり、スキルアップやクラフト系が主流だったレッスンプログラム商品の中で、内観やリフレッシュを目的とした商品で話題となりました。時は過ぎてマインドフルネスなどがよく話題になり、大人のアート体験として、スクラッチアートは気持ちがすっきりするということで話題になりつつありました」

―そこで両者を融合させようと…。

「かねてより写仏企画の第2弾はという問い合わせも多数あり、スクラッチアートを組み合わせた新しいコンテンツとして企画に踏み切りました」

―監修されている杉山僧侶とのご縁は。

「もとは多羅堂オーナーの杉山さんが大阪で『仏像バー』を開いていたんです。そこにおてらぶとして取材に行ったのが出会いです。杉山さんはバーのマスターとして働いていましたが、れっきとした僧侶。悩みを抱える人がその悩みを吐き出す場所としてバーという場所を提供し、そこで話を聞き、生き方の手助けをしたいという想いで活動されていました」

―斬新ですね。

「はじめは面白スポット的なイメージで取材に伺ったのですが、そのような想いでお店を切り盛りされている杉山さんはすごいな、と思う一方、私と同じ仏像マニアだということで話題も合い、すぐに仲良くなりました。現在は僧侶のお仕事と、仏像が欲しいという人と国内外の仏像のご縁つなぎの仕事が多くなり、バーは閉じて仏像のギャラリーを運営されています」

―削仏を通して、向き合うべきものは…。

「煩悩です。煩悩があるから、人は苦しむ。生老病死はまさにそれ。そこを知ることで、生き方に向き合えるというのが杉山さんの考えですので、同封のテキストはある意味煩悩の話まみれです(笑)」

「レッスンで出てくる貪・瞋・痴・慢・疑・悪見という6つのテーマは人間の六大煩悩といいます。このすべてを知ることで対処できるレッスンですので、すべての煩悩を知っていただきたいですね」

―制作で苦労した点は。

「スクラッチアートの下絵つくりです。企画をスタートした時、実は世の中には仏像をテーマにしたスクラッチアートはたくさんありました。そのどれも日本の仏像を削り描くものでしたが、個人的にその完成品が本物の仏像とかけ離れている印象がありました。それはなぜだろう…と考えたのですが、華美な仕上がりになるという部分だったんです。もちろんスクラッチアートなので、削った部分がキラキラした下地が出てきます。が、日本の仏像は決してゴージャスではない(古きものを古いままにするのは日本ならでは、なのですが)」

―違和感があった、と。

「そこで、仏像を削り描くなら、本当にゴージャスなものを描きたいと思い杉山さんに相談したところ、いっそ、日本の仏像ではなくインドやチベット、ミャンマーなどの豪華絢爛な仏像を描いてみるのはどうだという話になりました。もともと、日本の仏教は、インドやチベットからやってきたもの。国内でなじみ深い仏さまたちは、かの地でも同じ名前でちゃんと存在します。しかし、そのお姿は全く違うのです。そういったルーツに迫っていく感じも、今までにない仏像系スクラッチアートになるのでは?と思いました」

   ◇   ◇

 なお全削仏修了者に向け、杉山僧侶は冊子中のテキストでこう語りかけます。「人間は誰しも煩悩を持っています。克服するにはやはり日々の修業が大事。しかし大げさな修業が立派な修業というわけではありません。千里の道も、悟りの道も一歩から。レッスンは今回でおしまいになりますが、これからも少しずつ仏教の知識や実践を日常に取り入れ、皆さまが日々を心豊かに暮らせるようになれば幸いです」

◆「削仏」プログラムの詳細はこちら https://www.felissimo.co.jp/shopping/I180782/I280783/GCD204566/

(まいどなニュース特約・山本 明)

やさしい日本語、政府が初のガイドライン 外国人増で「重要な存在」に

Source:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191230-00010001-nishinp-soci

2019/12/30(月) 、ヤフーニュースより

西日本新聞
 政府が、日本語が苦手な人にも伝わりやすい「やさしい日本語」のマニュアルを2020年夏までに作成することが西日本新聞の取材で分かった。出入国在留管理庁と文化庁が連携し、政府としては初のガイドラインとなる。背景には東京五輪・パラリンピックの開催や、入管難民法改正に伴う労働者の増加があり、「やさしい日本語」の普及がさらに広がりそうだ。

 出入国在留管理庁在留支援課によると、文化庁国語課と共同で事務局を務めて「やさしい日本語の活用に関するガイドライン」を作る。年明けに言語学の専門家や自治体関係者、外国人支援団体関係者などによる有識者会議を設立。20年夏をめどにウェブサイトで公開し、誰でもダウンロードできるようにする。

 マニュアルには、国の役所や地方自治体、企業などが外国人の住民や労働者に情報を伝える際に留意すべき点や、通常の日本語を「やさしい日本語」に“翻訳”するためのノウハウなどを盛り込む。

 政府は19年10月、「やさしい日本語」による外国人向けの「生活・就労ガイドブック」を作成。役所が外国人の住民に情報を伝える際に「やさしい日本語」の必要性が高まることを見据え、今回のマニュアル策定が立案されたという。

 やさしい日本語は1995年の阪神大震災をきっかけに、外国人への情報手段として提唱された。自治体などが避難指示や観光案内などに活用している。

 日本で暮らす外国人のうち、英語が通じる人は3~4割にとどまる一方、「やさしい日本語」は6~8割の人に通じるとされる。在留支援課の平嶋壮州(まさくに)課長は「やさしい日本語は非常に重要な存在で、多くの人に普及させたい。さまざまな場面で活用できるマニュアルを策定したい」と話している。 (坂本信博)
西日本新聞社

「通じない」に意味がある 語学を学ぶ大学生、多言語劇を演じて伝えたかったこと

Source:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191228-00010001-globeplus-int
2019/12/28(土)、ヤフーニュースより

東京外国語大の学園祭に行ってみた
「多言語劇」というものがあるという。役者たちが複数の言語でセリフを言い合う演劇だろうか。でも、それではお互いに意味が通じないし、観客も戸惑ってしまうのでは。そんな「多言語劇」なるものを東京外国語大学(東京都府中市)の学園祭「外語祭」(11月20~24日)でやるというので見に行ってみた。

外語大には日本語以外に27言語の専攻語がある。外語祭では、1年生は学んでいる言語地域の料理や飲み物を出す「料理店」、2年生はその言語を使った「語劇」をやるのが伝統だ。外語祭実行委員会によると、多言語劇は主に3、4年生の有志によるもので、今年は「多言語有志語劇」「アジア有志語劇」の2団体が上演するという。こうした取り組みはすでに何年も前からやっているそうだが、いつ始まったのか詳細は不明ということだった。

まず、外語祭前に「多言語有志」の練習をのぞいてみた。日本語、スペイン語、ドイツ語、英語、中国語……聞いていてなんとなくわかったのは5言語。想像通り、役者たちがそれぞれ違う言語でセリフを言っている。そのほかに、チェコ語、ノルウェー語、沖縄語、ペルシャ語、韓国語、ポルトガル語、マレー語、の全12言語が使われていた。

「これまでの多言語劇は、それぞれが自分の専攻言語でセリフを言うというものがほとんどでした。会話は別々の言語でするけれど、それが通じているという前提で演じるものが多かったんです。でも、今年はそれはやめました」と主演のチェコ語専攻4年、江上聖志朗さん(23)。「実際には通じないし、通じないことが表現できるのも多言語劇なので」。そこで、オリジナルの作品「あなたの言語は?」に取り組むことにしたという。

主人公は外語大に合格したばかりの大学1年生。でも、言葉を学ぶ意味を探しあぐねていた。そんなある日、突然、全く言葉の通じない所に迷い込む。そこは相次ぐ災害で逃れてきた人たちが暮らす町で、それぞれが違う言語を話す場所だった。言葉が違う人は信用できないという人、自分の中に閉じこもる人。そして生まれる誤解、いさかい、疑い……。言葉の違いで対立が生まれる一方、相手のことを知りたいと思う主人公たち。その中で、言葉を学ぶ意味を探し出す。

多言語劇といえど最初の台本は日本語で書くのだそうだ。そして、キャスト陣は自分のセリフを自分の専攻語に翻訳し、大学のネイティブ講師にチェックしてもらって台本を「多言語」化していく。メンバーのほとんどに留学経験があり、翻訳作業はそれほど大変ではないらしい。ただ、英語専攻の坂本実月さん(23)は英語で授業が受けられるノルウェーの大学に留学したことからノルウェー語で演じることに。英語に訳したセリフをノルウェーの友人に頼んで翻訳してもらった。ストーリー上、ほかにも専攻語以外のセリフがある人も多く、お互いに教え合い、音源を聞いて覚え込んだ。当日の舞台では日本語字幕も用意し、使用言語が一つもわかららない人でも楽しめるよう工夫している。

「何で自分は言語を学んでいるんだろうと悩むのは、外大生あるあるなんです」と原案を考えたポルトガル語専攻4年の竹内宗之さん(23)。他大の友だちは専門的な勉強をしているのに、自分は語学。しかも必死に勉強しているのに、なかなか上達しない。勇気を出してネイティブに話しかけてみたら、全然通じない。「言葉を話すのが怖くなり、外国人を遠ざけてしまったこともあった」。翻訳ソフトが存在感を増し、言語学習が軽視されているような風潮もそんな気持ちを強くさせた。

それでも、頑張って言葉に歩み寄り、壁にうろたえつつも、立ち止まらず、何とか乗り越えようともがいてきた。「通じると嬉しい。相手の文化を知り、友だちができると、見えてくる世界が変わる。語学学習は諦めたくなるようなタフな道のりだけど、だからまた先に進もうと思えるんです」と江上さん。「言葉は壁にも、橋にもなる。人をつなぐこともあるし、人を残酷に隔てることもある」という主人公のセリフに込めた思いだ。

表のテーマは「言葉を学ぶ意味」だが、実は裏テーマがある。「異なるもの」をどう受け止めるかだ。竹内さんの関心テーマである「異文化理解」を盛り込んだ。

文化の違い、国籍の違い、ジェンダーの問題。社会のあらゆる所にある「分断」を越えて行くのも、言葉を学んで世界を広げようとすることと同じなんじゃないか。江上さんは「それがお客さんに伝わり、考えてもらうことができれば嬉しいです」と話していた。

もう一つの「アジア多言語劇」。こちらは「西遊記」の元になった「大唐西域記」をアレンジしたオリジナル劇「新・大唐西域記」に取り組んだ。

インドを旅する唐僧の玄奘三蔵が現代のインドにタイムスリップ。ヒンドゥー教やイスラム教、シーク教など様々な宗教と言語が入り交じる日常を体験しながら、「多様性」「異なるものに心を開くこと」について考えるストーリーだ。ヒンディー語専攻4年の李倫枝さん(23)と宮本知弥さん(23)が中心となり、中国語、ウルドゥー語、ベンガル語、タイ語、日本語の各専攻の学生が集まった。劇中では中国語、ヒンディー語、ウルドゥー語のほか、サンスクリット語、パンジャーブ語なども登場。みんなで翻訳して台本を作り上げた。こちらも「異なる言語同士は通じない」という演出で、劇中にダンスを挟むなど、エンターテイメントとして楽しめるよう工夫した。

様々な宗教や言語が共存するインドは多様性の国。「でも、留学していた時には少数派の人たちへのヘイトスピーチを報道などで耳にしました」と宮本さん。近年インドでは、ヒンドゥー至上主義の高まりに伴って、少数派のイスラム教徒に対するヘイトスピーチや暴力事件が起きている。

一方、出入国管理法が改正された日本でも、排外主義的な動きやヘイトスピーチは大きな問題となっている。「いかに多様な人々を包括できる社会になれるか、日本は多様性を尊重できるのかがいま問われていると思う」と李さん。参加メンバーのほとんどが海外留学をし、外国で自分自身がマイノリティーとなり、少数派が置かれた立場の実感があることも、このテーマでいく原動力になった。玄奘と共に旅する男を演じた中国語専攻4年の谷佳典さん(23)は「知らないものに出会った時、知ろうとする姿勢の大切さをより強く感じるようになりました」と振り返る。

実際に練習を始めてみて、もう一つ収穫があった。ヒンディー語など南アジア地域言語を専攻する学生と中国語専攻の学生との間で交流が生まれたことだ。インドを旅した玄奘のように、インドと中国は歴史的に深い繋がりをもつが、両地域を学ぶ学生たちの間には今まで交流がなかった。玄奘を演じた中国語専攻4年、加藤慎大さん(23)は「インドについての知識はほぼゼロでしたが、お互いのことを知るいい機会になりました。おいしいインド料理、ネパール料理なんかも教えてもらって」と話してくれた。

上演当日。会場のホール入り口にはどちらの劇も長蛇の列ができ、会場はほぼ満席状態だった。「外語大に入りたくなるなあ」という中高生や「一回だけの上演なんてもったいない」という年配の男性の姿も。観客の中にはたくさんの外国人もいた。多言語で演じるからこそ伝わるメッセージ。食い入るように舞台を見つめていた人たちの姿を見て、それは確かに伝わっていたと思えた。
朝日新聞GLOBE+編集部