2022年4月19日火曜日

河口慧海の足跡をたどって『西ネパール・ヒマラヤ最奥の地を歩く ムスタン、ドルポ、フムラへの旅』

 Source:https://www.yamakei-online.com/yama-ya/detail.php?id=1873

登る前にも後にも読みたい「山の本」
2022年04月18日
Googleニュースより

評者=和田豊司

 

チベット文化がチベット以上に残るネパールの高地で、ひたむきに生きる人々の表情が美しい。探検記というより写真集と捉えてもよい一冊である。その映像は写真家ではないかと紛うばかりのカメラワークである。

稲葉さんが憑りつかれたムスタン、ドルポ、ムグ、フムラ地域はネパールでも最も北西に位置し、チベット高原と接している。平均高度は3500mを超え、5000mの峠を越えなければ外の世界と行き来できない高原の世界だ。最近まで独立王国があった閉鎖的な地域でもある。

ヒマラヤやチベットに憧れて青春を過ごした登山者のなかで、河口慧海の『チベット旅行記』や川喜田二郎の『鳥葬の国 秘境ヒマラヤ探検記』に夢をはせた人は多いだろう。小生もその一人である。仏教は地理的・社会的・時間的に長い過程を経て多少変化しながら日本に伝わった。伝来仏教の本来の教えを知るため原典を求めてチベットに向かう河口慧海。単身ヒマラヤ山脈を越えての密入国である。あまりにも壮絶な旅の様子の信ぴょう性や、密入国にまつわるミステリーの解明に、多くの人々が調査を行なっている。

1900年当時は帝国主義時代。各国が植民地拡大、侵略に明け暮れていた。侵略を避けるためチベットは厳密な鎖国政策をとった。

そんななか、河口慧海はチベットのラサに向かったのである。ダージリンやムスタンの村・ツァーランでネパール語やチベット語を習得し、チベット人、モンゴル人僧侶などになりきって国境越えをはかった。チベット政府は密入国者のみならずその協力者まで死刑にしていた。僧侶としての河口慧海が人知れずヒマラヤ山脈越えをすることになった理由である。しかも国境越えを支援してくれた村人に迷惑をかけないよう、どの峠を越えて密入国したか一切口外しなかった。『チベット旅行記』でも地名を記さず、ぼかした表現になっている。稲葉さんがこの密入国の謎解きに興味をもったのも当然である。

川喜田二郎隊はちょうどその越境地域の学術探検を1958年に行なった。報告記録は『鳥葬の国 秘境ヒマラヤ探検記』、映画『秘境ヒマラヤ』として紹介されている。当時はトルボと表記されているが現在ではドルポと表記される。稲葉さんはこの辺境の地と河口慧海の足跡を重ね合わせながら素人目線で観察している。歩き廻りながらどんどん興味を深めていく様子がおもしろい。本人の意識にはないかもしれないが、根底に仏教文化の中で育った稲葉さんの目線が現地で生活する人々への敬意となって表われているように思う。リウマチという持病がありつつ飽くなき探求心に駆り立てられチャレンジする稲葉さんは、河口慧海を師と仰ぎながら、同じ病気と単身ヒマラヤ越えをしたこの地の先駆者として勇気をもらったに違いない。

なんのバックボーンもない山好き女性美容師がついに極寒の4000mの高地であるドルポで単身越冬し、その閉ざされたヒマラヤ山中での生活を記録する。好奇心と実行力に頭が下がる。植村直己がエベレスト登頂前にクムジュン(3800m)で越冬したことを思い起こす。越冬後、コロナ禍でネパール国境が封鎖される寸前に日本に帰国した彼女の、西ネパールでの踏査とこの越冬活動が評価され、第25回植村直己冒険賞の受賞につながった。

さらに稲葉さんのすばらしいことは、この本の出版のみならずデジタルメディアを使った情報発信力にある。ドルポや稲葉さんの行動に興味が湧いた方はぜひ彼女のウェブサイトを参照していただきたい。

 

評者=和田豊司

1946年生まれ。日本山岳会関西支部西チベット学術登山隊2004・学術隊隊長。河口慧海研究プロジェクトメンバー。同志社大学山岳会副会長。猿投の森づくりの会代表。日本山岳会東海支部元支部長。​​​

山と溪谷2022年4月号より転載)

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