Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/b93313174155c6cea1036b9da064ab9ebd12e399
7月28日に発生した熊本地震の被災者がいまだ避難生活を強いられる中、隣の福岡県では、今月5日にネパール出張から帰国した県議会の蔵内勇夫議長が、記者団に「ネパールは天国だった」と発言し、「無神経すぎる」などと批判を集めた。 「私は藏内の潔白は信じております」蔵内議長の元秘書によるX投稿 福岡県議会では、最大会派である自民党県議団の松尾統章会長(当時)が熊本地震の発生直後に政治資金パーティーを開催し「やって良かった」と発言したことも大きな波紋を広げた。松尾氏はその後、「被災地の方々に失礼な表現だった」と謝罪し、会長を辞任している(議員辞職については否定)。 過去を振り返っても、政治家の失言はたびたび物議を醸してきた。なぜ彼らは「一度出した言葉は取り消せない」というリスクを冒し続けるのか。議員法務に詳しい三葛敦志弁護士に聞いた。
なぜ政治家の「失言」は生まれるのか
三葛弁護士は、失言の背景として「(政治家が)誰に向けて話しているか」という意識が大きく影響すると分析する。 「たとえば松尾氏は、一般社会がどう受け止めるかではなく、自分を支えてくれる支持者に向けたメッセージのつもりだったのでしょう。支持者を集めたパーティーを無事に開催できた、だから『やって良かった』と。無事開催することができた、という安心感も重なったことでしょう。 支持者に向けた発言という文脈だけを見れば、『開催してよかった』という評価自体が直ちに不合理だとは思いません。ただ、それが報道を通じて社会全体に伝わることを考えれば、『やって良かった』という表現は不用意だったと思います」 特に、特定の支持層を固めることで政治基盤を築く議員にとっては、全国から薄く広く寄せられる批判よりも、地元の支持者の評価のほうが政治生命に直結する。たとえ世間から広く批判を浴びても、次の選挙で当選できれば「禊(みそぎ)が済んだ」とされる――。 こうした構造が、一般の感覚とは乖離(かいり)した発言を生む土壌になっていると三葛弁護士は指摘する。
失言を法的に問えない現実
では、こうした失言の責任を法的に追及することはできないのだろうか。三葛弁護士は「そもそも法律には『失言』という定義がありません」と前置きする。 「発言が特定の個人に対する名誉毀損や侮辱に当たる場合は、法的責任を問えます。しかし、松尾氏や蔵内氏のケースのように対象が曖昧な場合、誰かの権利を侵害したとは言えず、民事で損害賠償を請求できるような話にはなりません。問われるのは、あくまで政治的・道義的な責任にとどまります」 議会における責任追及も容易ではない。そもそも、単に「失言」があったということで議会として法的・制度的な制裁を科すことができるわけではない。議員に対する懲罰制度もあるが、議員のあらゆる言動を対象とするものではない。今回のような議会外での発言については、議会内部の懲罰というより、政治的・道義的責任の問題として扱われるのが基本となる。 「そもそも、議会の一般質問等は、本来、知事や市長をはじめとする執行機関に対して行うもので、問題発言をした議員本人を答弁者として追及するための制度ではありません」 三葛弁護士は、こうした失言について、法的責任の有無だけで評価するのは適切ではないと指摘する。
法的責任はなくても残る「実質的なリスク」
法的な責任追及が難しいからといって、失言のリスクが皆無なわけではない。三葛弁護士は、政治家が直面する「実質的なリスク」として以下の点を挙げる。 ・社会的烙印(らくいん):「こういう発言をする人物は不適格だ」という評価が定着してしまうこと ・選挙での落選:社会的な批判を浴びることで有権者が離れ、次の選挙で議席を失うこと ・ポストからの辞任:就いている役職にふさわしくないとして、辞任に追い込まれること ・党からの処分:所属政党・団体がイメージ悪化を懸念し、離党勧告などを突きつけること 今回、地震直後の政治資金パーティーについて「やって良かった」と発言した松尾氏が自民党県議団の会長職を辞任したことは、こうした政治的・社会的責任の取り方のひとつと見ることができる。一方で、同氏が議員辞職を否定したことについては、三葛弁護士は「そもそもこの件がもっとも重い判断である議員辞職にまで相当するとは考えにくい」との見解を示した。 「一方、そのときには問題とされなかった発言が事後的に『失言』とされるケースもあり、中には意図的に失言をさせるように仕向けられるような場合もあります。気にしすぎると何も発信できないことにもなりかねません」
問われる政治家のリスク管理能力
政治家の発言が「失言」として批判される背景には、メディアによる「切り取り」の問題も存在する。三葛弁護士は「ネット社会になる以前から、発言の一部だけを抜き出して批判する手法は問題視されてきました」と語る。しかし、だからこそ公人である政治家には、自らの言葉がどう受け取られるかを常に意識する、高度なリスク管理能力が求められるという。 「今回の松尾氏のケースも、もし『こういう状況下でも、皆さんの生の声を聞けてありがたかった』という表現であれば、批判の大きさはまったく違ったはずです。『やって良かった』という言葉を選んでしまった以上、文脈から切り離されてしまうと、もはや取り返しがつきません」 では、どうすればリスクを管理できるのか。三葛弁護士は、その場ですぐに答えようとする姿勢そのものにリスクが潜んでいると指摘する。誠実に見える半面、不用意な発言や、答えに詰まる姿が報道されれば、大きなダメージにつながりかねない。 批判を受けやすい立場にいる時ほど、不用意な発言を避けるため、即答せずに一度持ち帰り、整理した上で回答するといった慎重な対応が不可欠になる。
最終的な審判は有権者に
松尾氏の「やって良かった」発言も、蔵内氏の「ネパールは天国だった」発言も、特定の個人の権利を侵害したものとは言いにくく、司法による法的責任の追及にはなじみにくい。議会でも、前述のとおり、直ちに制度上の制裁の対象となるものではない。問われるのは政治的・道義的責任であり、その最終的な審判を下すのは、選挙における有権者の1票に他ならない。 三葛弁護士は、こうした問題はすべて「程度問題」だと強調する。同じ発言でも、その背景にある文脈によって社会的な受け止め方は大きく変わる。今回は、被災地の隣県であったことに加え、地震発生以前から金銭授受疑惑によって注目されていた福岡県議会の重要ポスト(松尾氏は自民党県議団会長、蔵内氏は議長)にあったことが、失言の影響をより増幅させた。 「やって良かった」「ネパールは天国だった」という一言は、発言者にとって偽らざる本音だったのかもしれない。しかし、公人の言葉は、支持者だけでなく、社会全体へのメッセージとして受け止められる。そのギャップを埋める想像力と責任感こそ、政治家に求められる本質と言えるのだろう。

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