Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/4a4f3bf6f4bed9ef5cab91dc8772ba0dbad9242d
ヒマラヤの8000メートル峰14座を189日で完登したネパールの登山家ニルマル・プルジャ氏(43)がブロードピークで雪崩に遭い、亡くなった。ネパールでは「当代最高の登山家が去った」と言われている。プルジャ氏はネパールの若者たちが生涯夢見る二つの道、グルカとシェルパを両方達成した唯一の人物だった。 【写真】ブロードピーク登山中に死亡したネパールの登山家ニルマル・プルジャ氏 ネパールのティーンエイジャーが夢見る「脱ネパール」の夢は2つある。1つ目は、英国の歴史あるグルカ連隊の傭兵になることだ。数百対1の競争を突破すれば、世界的に認められるエリート兵士になれるし、給料も一般的なネパールの労働者の10〜20倍に及ぶ。 山の麓に住む十代は、高山シェルパ(Sherpa、シェルパ族または高山ガイド)になることを夢見る。彼らは主に遠征隊の荷物持ち(Porter)や厨房補助から始まり、トレッキングガイドやシェルパへと成長する。ネパールでも遠征隊の荷物持ちは賤職とされ、底辺から自力で成功したという自負が大きい。また、グルカ傭兵と共にネパールのドル稼ぎの尖兵だ。しかし、荷物持ちから始まり高山ガイドとして生き残り、トレッキングエージェンシーの社長になることは、グルカ傭兵と同じくらい難しい。 グルカとヒマラヤの山岳界、二つの世界で「ニムスダイ(ニムス兄さん)」と呼ばれたニルマル・プルジャ氏(43歳)は、ネパールで最も狭い2つの関門を門を2つとも通過した人物だった。プルジャ氏は18歳でグルカ傭兵となり、6年間勤務した。その後の10年間は、ネパール人として初めて英国特殊部隊(SBS=Special Boat Service)の一員となり、数多くの戦場を駆け巡った。 プルジャ氏のヒマラヤ入門はSBSで勤務していた2012年のことだった。2012年、エベレストのベースキャンプのトレッキング中に即興でロブジェ・ドンボン(6119メートル)に登った。初めての高山だった。わずか2年後には世界7位のダウラギリ(8167メートル)を登頂した。ほとんどのシェルパは10年以上の経験を積んだ後、8000メートルのガイドになる。しかし、プルジャ氏は初めての高山経験からわずか2年でダウラギリの頂上に立った。 プルジャ氏は2019年に画期的な登山計画を立てた。ヒマラヤの8000メートル峰14座を7カ月で完登する「プロジェクト・パッシブル(Project Possible)」だ。成功すれば、世界中の登山界を驚かせる企画だった。それまでの最短記録は故キム・チャンホ隊長の7年10カ月だった。プルジャ氏は189日で成功し、彼の旅を描いたNetflixのドキュメンタリー『ニルマル・プルジャ: 不可能を可能にした登山家(Nothing is Impossible)』がヒットし、プルジャ氏は登山家のカテゴリーを超えた。伝説のグルカ傭兵から、世界で最も強靭な山岳家、インフルエンサーへと変貌したのだ。 2021年、プルジャ氏は再び世界の登山家の中心に立った。ネパールの有能なシェルパ9人と共に、当時誰も成功できなかったK2(8611メートル)の頂上に登った。8000メートルの高峰の中で唯一冬期未登頂のまま残っていた難題だった。 しかし、永遠のものはなかった。プルジャ氏の疾走はブロードピークで終わった。先月30日、プルジャ氏の58番目の8000メートル峰、パキスタンのヒマラヤ・ブロードピーク(8051メートル)に挑戦したプルジャ氏は、キャンプ2(6400メートル)とキャンプ3(7100メートル)を登っている最中に雪崩に巻き込まれて行方不明になった。捜索を行ったパキスタン・アルパインクラブは3日後にプルジャ氏の遺体を発見し、5日にベースキャンプへ移送した。共に登山に参加していた商業登山隊員4名とスタッフ5名も全員死亡した。プルジャ氏の死に対し、ネパールと英国の社会も哀悼の意を表した。 山岳界によれば、ブロードピーク・キャンプ2〜3は登山シーズン(5〜7月)に雪崩に見舞われていた場所ではない。まず、ヒマラヤの登山情報を伝えるエクスプローラーズ・ウェブや一部の登山家によると、今年のパキスタン・ヒマラヤは平年より暖かく、雪が多く降ったと伝えられている。 事故が起きた時期にブロードピークがあるカラコルム・ヒマラヤ地域をトレッキングしたキム・ジェス隊長は「歩いている間ずっと雨が降り、ブロードピークやK2、ガッシャーブルム1・2峰でも雪がたくさん降った」と語った。K2とブロードピーク・ベースキャンプは半日で行ける距離で近く、ガッシャーブルム1・2峰はそこから一日で行けるほど、ひとつの大きな氷河の中に位置している。

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