Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/c14e481ec26bd6e4fa44df45824ba76aa5b52d18
コリアンタウンとして女性に大人気の街、東京・新大久保。だが賑わいの裏には、一部は銀座並みの家賃と、低い客単価というシビアな現実がある。流行が激しく移り変わっていく理由、隆盛する韓流ビジネスの裏側、そしてこの街がコリアンタウン化した背景まで──40年間この街を見続け、「新宿韓国商人連合会」の会長として地域の日本人社会とも連携する、鄭宰旭(てい・あきら)さんにお話を伺った。 【写真を見る】いま新大久保でとくに人気の店とは(写真:筆者撮影) ■韓国の人気店が次々と新大久保に上陸する背景
「いま人気なのはこれですよね。フルーツやスイーツをいろいろトッピングできるフローズンヨーグルト」 日本人の若い女性で行列ができている店「ヨアジョン」を眺めながら、鄭宰旭さんは言う。コリアンタウン新大久保を40年ほど見続けてきた。地域の韓国人事業者を束ねる、新宿韓国商人連合会の会長でもある。 「それと、ドバイチョコですね」 いまや新大久保のあちこちで売られるようになったドバイ発のスイーツだ。チョコの中にピスタチオクリームと、カダイフという細い乾麺を砕いたものが入っている。パリッとしたチョコの殻の中から、とろりとしたピスタチオクリームがあふれ、カダイフのザクザクとした食感とマッチして、なるほどうまい。ドバイで2021年に発売されたが、韓国では2024年春頃から大流行した。
「TikTokやInstagramのショート動画がバズったんです」 とりわけ、カダイフが「ザクッ」と音を立てるショート動画は食欲をそそった。韓国ではあっという間に人気商品となり、コンビニやスイーツ店でも類似商品や、餅でくるんだ派生商品などが次々に投入された。芸能人や食のインフルエンサーもSNSで取り上げ、一大ブームが巻き起こる。 その波が新大久保に届いたのは、およそ半年後。 「韓国で人気になったものが、少し経ってから新大久保に入ってくるんです」
その形態もさまざまだ。いまでは韓国で人気のチェーン店が、どんどんと新大久保の街を彩る。 「韓国の有名なチェーン店とフランチャイズ契約を結んで、持ってくるんですよ」 「ヨアジョン」もそのひとつだ。韓国で2021年に創業すると、あっという間に評判を呼び、いまは650店舗を展開。そういう企業にアプローチをして、日本進出を持ちかけるのだ。 「15年ほど前からの現象でしょうか。最初は韓国で人気のチキンの店だったと思います。私の後輩も『明洞タッカンマリ』で修業してフランチャイズ契約を結び、新大久保に持ってきた。釜山で有名な鍋料理『ナッコプセ』で知られる『ケミチプ』もフランチャイズですね」
■新大久保発祥と言われるチーズタッカルビは韓国に逆輸入されて人気に 鄭さん自身は貿易業や宿泊業などを営む実業家だが、やはり新大久保でフランチャイズ店を経営していたことがある。チーズタッカルビ(鉄板で焼いた鶏肉と野菜にチーズを絡める料理)の専門店「ホンチュンチョン」だ。 「新大久保には2018年にオープンさせたんですが、当時では韓国で200〜300店を展開する企業でした。店のイメージキャラクターだったアイドルグループの『B1A4』も呼んでオープンセレモニーをしましたが、何百人というお客さんが来てくれましたね」
ちなみにチーズタッカルビは、新大久保発祥と言われるアレンジ料理だ。これが韓国にも逆輸入されて人気を呼び、大手チェーンまで出てきたが、それを鄭さんがさらに輸入したというわけだ。 フランチャイズ契約の内容はさまざまで、日本全国で展開できる権利をもらえるのか、東京限定なのか、あるいはその店のみなのか。それによって契約金も変わる。売り上げのパーセンテージで決める場合もある。レジを通じて売り上げの管理システムが韓国側とつながっているところすらあるそうだ。
チェーン店のほうも、味やコンセプトをしっかり学んでもらうため、研修や工場見学などを義務づけているところもあるし、一定期間の「修業」が必要な場合もある。加えて、立地条件も厳しくチェックされるが、そういう意味で新大久保は有利だ。日本の「韓流」中心地というイメージは、韓国の飲食業界にも広く伝わっている。 「新大久保で成功したら、日本各地で支持される。そして日本で流行ったものは、東南アジアや中国でも人気になる。新大久保は世界に向けた韓流の発信地にもなっているんです」
実際、新大久保でビジネスをしていた韓国人が、ベトナムやタイに進出していく例もあるのだとか。韓国で生まれた流行が、どこまで受け入れられるのか、新大久保はその試金石であり、さらなる海外飛躍への拠点ともなっているのだ。 ■SNS専門の社員を雇い、日帰りで韓国へ もちろんチェーン店だけでなく、個々で勝負する人もたくさんいる。ドバイチョコが売れていると見るや、すかさず同じようにドバイチョコを出すような人も多い。激しく移り変わる流行に乗って、店の内装も出すメニューも変えていく。
2016年頃にブームとなったチーズタッカルビ以降も、タピオカドリンク、ハットグ(韓国式のアメリカンドッグ)、マカロン、10円パン、チュクミ(イイダコの甘辛炒め煮)、チャジャンミョン(韓国風ジャージャー麺)、麻辣湯などなど、人気の品が出てきては次のムーブメントに埋もれていく流れは止まらない。その荒波の中で新大久保の韓国人たちは、四苦八苦しながら商売している。 韓国の若者たちのSNSを調べ、ときには日帰りで韓国にもリサーチに行き、トレンドを追う。日本人女性に人気の韓国の番組も、大事なチェックポイントだ。
「ネットフリックスで放映された韓国の料理番組『白と黒のスプーン 〜料理階級戦争〜』シーズン2に出てきた料理人、オク・ドンシクさんのデジコムタン(豚出汁のクリアスープ)が食べられる店は行列になっていることも多いですね」 実在の料理人たちが腕を競うこの番組、日本でも韓流ファンの間で評判を呼んだ。韓国のドラマなどになにか料理が出てくると、新大久保で食べられる場所はないかファンはチェックする。その需要に応えるように店を出す。SNS専門の社員を雇用している店もけっこうあるそうだ。
とはいっても、商売はそう簡単ではない。 「韓国で売れているからといって、必ず成功するわけじゃない。人気のチェーン店を持ってきても、うまくいかなかったこともあります」 たとえお客が入っても、「韓流の聖地」となった新大久保の家賃はきわめて高い。一部は銀座並みといわれる。そうなると、どれだけ売れてもあまり儲けが出ないこともある。 また、いまの韓流ブームの主役は10代の女性だ。中高生も多いから、どうしても客単価は低くなる。そのため、リーズナブルな食べ放題や飲み放題の店も増えているのだが、それは結果として町全体の売り上げの低下につながりはしないか……そんなジレンマも抱える。賑わいの裏では、なかなかにシビアな現実がある。
「次に流行りそうなメニューですか? いや、それがいちばん難しい。わかれば苦労はありません(笑)」 ■韓国の店が、数軒しかなかった1985年 鄭さんは釜山に生まれた。植民地時代に、日本人コミュニティがあった地域だった。 「近くに日本領事館もあって、畳のある家も残っていて。だから日本はすごく身近でした。当時は日本のほうがずっと経済的に豊かだったし、憧れがありましたね」 そんな気持ちから、大学では日本語学科に入った。卒業後に選んだのは日本への留学。後押ししたのは、1983年に中曽根康弘首相の提唱のもと始まった「留学生10万人計画」だ。日本の教育機関では、留学生の受け入れ拡充が進められ、ビザの取得もしやすくなった。
一方の韓国では、まだ海外旅行は完全に自由化されていなかったが、国費留学生を中心に、政府の許可を得て海外へと学びに出る若者たちが増えつつあった。そんな波の中に、鄭さんもいた。 「それでも、まだ海外に行くっていうのはすごく特別なことでした。出発の日、空港には親戚や友人が40人くらいも見送りに来てくれて、花束を渡されて。ありがたかったですが、この花束、成田に着いたらどうしようって(笑)」 こうして1985年、初めて日本の地を踏んだ。
「私は国費留学生ではなかったですが、専門学校の日本語学科に入ったんです。高田馬場の学校でした。駅前には、いまもありますがBIG BOXが建っていて、こんな高いビルは釜山にはないってびっくりしたのをよく覚えています」 ほんの9階建ての商業ビルを、鄭さんは驚きとともに見上げた。いまでこそ巨大都市として成長し、超高層ビルが林立する釜山だが、40年前の日韓の差はまだ大きかった。 来日当初は学校が手配してくれたアパートに住んでいたが、やがて新宿の飲食店でアルバイトをするようになり、すぐそばの新大久保で暮らし始めた。
「あの頃は韓国の店が数軒しかなかったんですよ。職安通りに小さな食堂がぽつぽつあったくらいかなあ」 ■1950年にロッテの工場が建てられ、韓国人労働者が集まるように いまは韓流女子で賑わう大久保通りは、ごく普通の日本の商店街だった。もともとこの街に住む韓国人は、決して多くはなかったのだ。1950年、現在の新大久保駅のそばに、在日韓国人が創業したロッテの工場が建てられ、韓国人労働者が集まるようになったともいわれる。だが、それも大きな数ではない。むしろ新大久保から職安通りを挟んで南側、歌舞伎町のほうに、古くから日本に住む在日韓国人経営の店がいろいろあったそうだ。
「それが変わったのは1989年だと思います」 韓国でも、海外旅行が自由化されたのだ。前述の「10万人計画」もあって、来日する留学生は急増。住む場所として、日本語学校がいくつかあった高田馬場や新大久保など、新宿区を選ぶ人がとくに多かった。その留学生たちがお腹を満たす食堂や食材店、国際電話の店なども新大久保には少しずつ増えていく。 1998年には、小渕恵三首相と金大中大統領が「日韓共同宣言」を発表。これを機にそれまで韓国では制限されていた日本の大衆文化(映画・音楽など)が解禁、人気を集めるようになっていく。ワーキングホリデー制度も互いに始まり、人の往来が盛んになる。新大久保に住み、学ぶ韓国人の若者は、さらに目立つようになっていった。
そして、2002年に日韓で共催されたサッカー・ワールドカップと、2003年に日本でも放映されて爆発的な人気となった韓国ドラマ「冬のソナタ」がきっかけとなり、韓国の文化に興味を持った日本人が新大久保に大挙して来るようになる。 こうした「日本人観光客」の需要を満たすために、商機と見た元留学生たちを中心に、新大久保で韓国料理やコスメやアイドルグッズなどの店を出す韓国人が急増。新大久保はあっという間に韓国系ビジネスが集積する街へと変化していった。
■ゴミ、騒音、軋轢…そして清掃活動が始まった いったんは帰国して、釜山で日本語学校を経営していた鄭さんが日本に戻ってきたのは1997年。新大久保で盛り上がる韓流ブームを横目に、やはり韓国人ビジネスパーソンの集積地である赤坂でレストランを切り盛りしていた。けれど、よりビジネスチャンスがあると見込んで再び新大久保に拠点を移す。2014年のことだ。 しかし、街は揺れていた。急激な「韓国化」によって、地元の日本人との軋轢が深まっていたのだ。食べ歩きを楽しむ観光客が捨てていくゴミ、騒音、街の混雑……そこで2014年に結成された「新宿韓国商人連合会」に鄭さんも理事として参加。地域の日本人と向き合うために、さまざまな取り組みを始めた。
「連合会のほうで行政や警察との話し合いの場を持ったり、地元の町会や商店街と付き合いを始めたり。それにクリーン活動ですよね」 鄭さんたち韓国人は、新大久保の清掃を定期的に行うようになった。これを機に、商店街との接点も増えていく。そして、鄭さんは日本側の商店街にも加入して、コリアンタウンというよりも、地域のための活動にも力を入れていく。同胞たちには日本のルールを守るようチラシを配って回り、少しずつトラブルは減っていった。
■「もう日本がふるさとなんです」 その頃、新大久保はさらなる「国際化」の時代を迎えていた。ネパール人やベトナム人も急増し、この街で飲食店などのビジネスを広げつつあったのだ。 「街に貢献しないと、というのが新宿韓国商人連合会の考え方でもあったので、ほかの国の人たちとも協働しようと思ったのですが、ネパールもベトナムも窓口がわからない。そこで新宿区の多文化共生推進課や、商店街の人たちと一緒に、いろんな店を回ってね」
結果、両国のコミュニティの代表ともいえる人々とつながり、国を越えて新大久保のために活動しようと「インターナショナル事業者交流会」が結成された。日本、韓国、ネパール、ベトナム(後にバングラデシュと中国も参加)の事業者が定期的に会合を持ち、意見を出し合い、地域のためになにができるのか話し合う。 日本でも稀な取り組みとして、メディアに取り上げられることも多いが、鄭さんは2017年の第1回会合から、韓国側の中心になって参加してきた。
そして2023年には、「新宿韓国商人連合会」の会長に就任した。しかし、それも本業の傍らで、すべてボランティアだ。どうしてそれほど熱心に地域のために活動しているのだろうか。 「まあ、誰かがやらなきゃならないことですしね。なにより、地元の日本人とうまくやっていかなきゃならないって気持ちはやっぱり大きい」 現在は、さらに増え続ける観光客によるオーバーツーリズム対策が目下の課題で、自治体や町会などとも話し合いを続けている。また、クリーン活動をきっかけに、地元の日本人と交流が深まった自分たちの経験を、ほかの外国人に伝えてもいる。鄭さんたちのアドバイスを受けて、ネパール人とバングラデシュ人も、街の清掃に取り組み始めた。
「初めて日本に来てから40年以上。人生の3分の2を過ごしてきました。ふたりの子供たちも日本で結婚して、日本の企業で働いています。もう韓国に帰るつもりはないですし、だから国籍も日本に変えました。この国に骨を埋めるつもりです。日本はもう、私のふるさとなんです」 移り変わりの激しい街を、鄭さんは今日も歩き続けている。
室橋 裕和 :ライター

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