Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/c37f488656652ed341875bb6c63c61f115c0d959
区民の2割以上が外国籍、約80カ国の人々が暮らす大阪市生野区。その多文化な街並みは、ある日突然生まれたものではなかった。土地の成り立ちから移住の歴史まで、生野の知られざる歩みをたどる。朝日新聞の玉置太郎記者、大瀧哲彰記者による新刊『ルポ 大阪・生野 人口2割が外国籍の街』から、一部抜粋してお届けする。
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■「生野区」ができるまで
この章では「生野」という街について、そのはじまりから現在まで、時間の流れにそって見ていきたい。いまや区民の2割以上が外国籍、約80カ国の人々が暮らすこの街が、どのようにして形づくられていったのか。その地層をたどることで、「共生」を考えるうえでの基盤を押さえておきたい。
生野の歴史を数千年前から説き起こすとしたら、そもそも今の大阪市があるエリアは、一部の台地をのぞいてほとんど海だった。
海は長い時間をかけて狭まっていき、2千年ほど前には今の生野区周辺は湖となった。周囲にくらべて〝土地が低い〞ということは、現在の多文化状態へと至る歴史の重要な背景になるので、強調しておきたい。
この「河内湖」と呼ばれる湖にはいくつもの河川が注ぎ込み、付近に多くの集落が形成されていった。
そうした集落の一つに「猪甘(いかい)津」があった。奈良時代にできた日本書紀には、4世紀ごろとされる仁徳天皇の時代に「猪甘津に橋為す」という記録がある。ここが後に生野区の中心地となる「猪飼野(いかいの)」へつながったとみられる。〔*1〕
室町時代には「猪養野庄」という地名の記録があり、江戸時代には「猪飼野村」となった。猪飼野村を含めた5村は、明治政府が市町村制を始めたときに「鶴橋村」へ、大正元(1912)年には「鶴橋町」へと変わっていった。〔*2〕
このころまで、生野一帯は田畑や原っぱの広がる農村だったという。
一方、西隣にある大阪市では工業が発展し、「東洋のマンチェスター」と呼ばれるほど都市化が進んでいた。その〝郊外〞にあたる鶴橋町でも徐々に宅地が開かれ、大正期に入ると移住者が急増。町の人口は1920年までの10年余りで、約7倍の3万3千人にまで膨らんだ。〔*3〕
1925年、大阪市域が拡張され、行政区の数は「東西南北」の4区から13区まで一気に増えた。鶴橋町や近くの生野村を含めた4町8村も大阪市に編入され、新たに生まれた「東成(ひがしなり)区」となった。
その後の東成区は人口30万人を超えて市内最大級の行政区となり、サービスが十分に行き届かないといった課題も持ち上がった。大阪市は東成区の北半分を「旭区」として分区。さらに太平洋戦争中の1943年に南半分を独立させ、「生野区」が生まれた。〔*3・4〕
区名には「鶴橋区」なども候補に挙がったようだが、市議会での議論のすえ「生野区」に決まった。地元にのこる故事「生野長者」の名にちなんだほか、生野高等女学校など「生野」と名の付く官公立の学校が三つあることも決め手になったという。〔*3・5〕
■朝鮮半島から移り住む人々
大正期、生野一帯が都市化していく原動力となったのが「平野川」の開削工事だった。
かつて湖だったこの地域は、土地が低くて水はけも悪い。そこを南から北へと曲がりくねって流れる平野川は魚も捕れる澄んだ流れだったが、大雨が降るたび氾濫し、一帯が水に浸かった。
大正期に入って人口が急増するなか、地元住民らは1919(大正8)年に組合をつくって、農地を宅地に変えていく工事に着手。その際に、氾濫をくり返す平野川の流れを真っすぐにする開削工事も行われた。いま生野区の南端から北端を縦貫する平野川は、この工事で生まれた。〔*1・6〕
開削工事には、朝鮮半島から移り住んだ人々が大勢雇われていたという。1910年に日本の植民地とされた朝鮮出身の労働者は、日本生まれの労働者よりも賃金の相場を低く抑えられていた事情があるようだ。〔*7〕
それと前後して、朝鮮半島の南に浮かぶ周囲200キロ余りの島「済州島(チェジュド)」から、多くの人々が大阪へ移り住むようになった。きっかけとなったのが大阪と済州島を結ぶ〝定期船〞の就航だ。
1922~23年ごろ、関西の地方財閥が運営する「尼崎汽船部」が大阪―済州島間に「君が代丸」を就航させた。朝鮮語で「クンデファン」と読むその船名は、済州島の人々にとって渡日を象徴する言葉となった。
さらに2年後には半官半民の「朝鮮郵船」も就航。船賃をつり上げようとする両社に対して、大阪で暮らす済州島出身者らは基金を募って「東亜通航組合」を立ち上げ、自ら定期船を就航させた。〔*8・9〕
こうして渡日の流れはますます強まり、1934年には全済州島民の2割超、約5万人が日本へ渡っていたという。背景には植民地行政によって、農民たちが耕作地を不当に奪われた経緯がある。〔*8・9〕
加えて済州島では、日本の近代漁業の進出で伝統的な漁業が立ちゆかなくなったり、日本の紡績工場で作られた安い綿布の流入で綿花栽培や手紡ぎ工業が衰退したりと、近代化による地場産業の破壊が渡日の流れに拍車をかけた。〔*9・10〕
故郷を離れざるを得なくなった済州島民たちは定期船に身を託し、特に零細工場が多く集まる大阪市南東部へと移り住んでいった。
移住者の多くは親族や同郷人を頼って、大阪での住まいや仕事を見つけた。特に平野川沿いにある猪飼野には、朝鮮出身者が経営する下宿屋が100軒以上もあったといい、同郷の働き手が次々と集まった。下宿屋が働き口を紹介するケースもあったようだ。
当初は単身の男性が大半を占めていたが、1930年代後半に入ると女性の来阪者も増えていった。朝鮮出身者に対する入居差別があるなかでも、借家を見つけて家族と住まう人々が徐々に見られるようになった。〔*8・9〕
当時の生野周辺で、朝鮮出身者の最大の働き口だったのがゴム関連の工場だ。特に猪飼野にはゴム靴を作る零細の工場が集中し、職工の需要がいくらでもあった。生野でのゴム靴製造の伝統は、戦後のヘップサンダルなどの履物産業へ受け継がれている。
ゴム工場は薬品の悪臭や蒸気の熱、発火の危険もある厳しい環境だったが、朝鮮出身者の賃金は低く抑えられる傾向があった。生活の維持もままならない待遇のなか、朝鮮出身者の労働組合も生まれ、昭和期になると労働条件の改善を求める争議が相次いだ。
やがて日本人経営の工場から独立し、自営の工場を持つ朝鮮出身者も現れる。そこでは特に、同郷の職工が集まるようになった。〔*8・9〕
こうして20世紀の前半、生野周辺に朝鮮半島出身者のコミュニティが築かれていった。
1945年の終戦時、大阪府内には約30万人の朝鮮人が暮らしていたとみられる。日本の敗戦によって植民地支配からの解放を迎えた朝鮮へ帰っていく人々も多く、1947年には約10 万人にまで減ったという。〔*11・12〕
ただ生野周辺では、大阪市内で他に朝鮮出身者が集住していたエリアに比べ、戦後も住み続ける朝鮮出身者が多かったという。空襲の被害が比較的少なく、ゴム工場などの自営業で生活基盤をもつ人もいたことが要因の一つとされる。〔*12〕
市の統計によると、生野区に住む韓国・朝鮮人は1947年に2万人強だったが、1971年には4万人に達している。〔*11〕
戦後も朝鮮半島ルーツの人々への差別が根強く残り、故郷では朝鮮戦争や軍事独裁によって情勢の見通しが立たなくなるなか、同胞を頼って生野へ集まる在日コリアンは増え続けた。
*書籍『ルポ 大阪・生野 人口2割が外国籍の街』
第2章「生野という街」から抜粋
【AERA Books MEMO】
『ルポ 大阪・生野 人口2割が外国籍の街』(玉置太郎、大瀧哲彰)
住民の2割超が外国籍(都市部の市区町村で最多)の大阪市生野区。戦前から在日コリアンが多く住み、近年はベトナム、ネパール、中国など約80カ国の人々が暮らす。ヘイトや差別が飛び交う日本で、生野の人々はそれをどう乗り越えているのか。市民・行政が街をあげて共生に取り組む生野の現場を長期取材したルポルタージュ。
【注釈】
*1 猪飼野保存会『猪飼野郷土誌』1997
*2 東成郡役所『東成郡誌』1922
*3 生野区制50周年事業実行委員会『生野区50年のあゆみ』1993
*4 東成区制七十周年記念事業実行委員会『東成区史』1996
*5 生野区役所『生野区誌』1953
*6 生野区役所『わが郷土「猪飼野」を語る』1998
*7 猪飼野の歴史と文化を考える会『ニッポン猪飼野ものがたり』批評社、2011
*8 杉原達『越境する民』新幹社、1998(岩波現代文庫、2023)
*9 金賛汀『異邦人は君ケ代丸に乗って』岩波新書、1985
*10 高鮮徽『20世紀の滞日済州島人』明石書店、1998
*11 生野区役所総務課『生野区50年の歴史と現況』1993
*12 福本拓『大阪のエスニック・バイタリティ』京都大学学術出版会、2022

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