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われわれの先祖が辿ってきた歴史には正史では語られなかった部分も数多く存在する。放っておけばただ忘れ去られてゆくだけのその残滓を求めて、ノンフィクションライターでありカメラマンでもある八木澤高明氏が北海道から九州までの現場を歩いた『忘れられた日本史の現場を歩く』(辰巳出版)が6月4日に刊行された。 【「姥捨山伝説」は事実だった‼】岩手県遠野市の「デンデラ野」に残された確かな〝証拠〟 八木澤氏が語る。 「僕が歩いてきた場所は、実際には市史や町史の片隅にはちょこっと載っているかもしれないけど、もうほとんどみられないというか、 気づかないで通り過ぎてしまうような土地ばっかりだと思うんです。そういう場所を歩きたいなという気持ちはずっと昔からあって、フリーになってから、15年以上かけてちょこちょこ取材していたものを、まとめさせてもらいました」 本書の中で八木澤氏が訪れた19ヵ所の現場では、高知の山奥の村で密かに受け継がれてきた術を継承する「拝み屋」本人に出会えた例もある。だが、その当時の言い伝えをわずかながらにも聞くことができた場所はまだいいほうで、当時の痕跡が何も残っていない場所さえあった。それでも八木澤氏は「現場を歩くことが大事」だと言う。 「その風景を見れば、そこに何か手がかりはあると思うんです。例えば秩父の無戸籍者が暮らしていた村があった場所には、もう何も残っていないんです。しかし、そこは荒川の源流の最初の一滴があって、生活できる場所だった。間違いなくそこにいたって確証はないです。 だけど、その周辺にいたということは書いてあって、客観的事実として人が生きていくことができたんだなっていうことは感じました。それは現場を歩いたからわかったことで、それがなくて成立はしないと思うんです」 こうして八木澤氏が1ヵ所ずつ訪ねて回った〝忘れられた日本史〟の中からいくつかの〝現場〟を紹介する。 ◆独自の呪術信仰〝いざなぎ流〟─拝み屋が暮らす集落(高知県香美市) 《平家の落人伝説もある高知県の山中に拝み屋または太夫と呼ばれる人々がいることを知ったのは今から一五年前のことだった》(『忘れられた日本史の現場を歩く』より。以下同) この地独特の仏教や神道、陰陽道が入り混じった信仰は〝いざなぎ流〟とも呼ばれ、それを司る太夫は病人の祈祷や村祭りなど、村人の日常生活全般に関わってきた。時には村人の依頼で呪いをかけることもあったという。八木澤氏は今も現役の太夫がいるという高知県物部村(現・高知県香美市物部町)へと向かった。1ヵ月前に林道が通ったばかりで、まさに『ポツンと一軒家』に出てきそうな場所を訪ね歩いた八木澤氏は「最後の1人」の太夫に会うことができたのだった。 「四国の高知と徳島の県境で、本当に一番山深いところでした。唯一あった道も最近できたもので、それまでは人の足でしか行けなかった。本当に陸の孤島みたいな場所なんですよ。そんな隔絶したところだから医者なんていないじゃないですか。だから、まじないというか、土着の信仰に頼るしかないわけです。 僕も昔、ネパールを取材したときに1ヵ月ぐらい咳が止まらなくなって寝込んだことがあったんです。村の人からは『魔女に呪いをかけられているからだ』とか言われたんですけど、ある日祈祷師みたいな人が来て、刀を振り回してまじないをかけるんです。最後に刀の刃の先から出たしずくを飲んだら、咳が治ったということがありました。それが本当に効いたのかはわからないですけど(笑)。 今ではほとんどの人が病院にかかることができるから、必要がなくなってしまったけど、おそらくこういう民間信仰は日本各地にあったんでしょうね。もしかすると、民間信仰が進んでいくとオウム真理教のような新興宗教に繋がっていく部分もあるのかもしれないけど、そういったものを受け容れてしまう土壌も日本にはそもそもあるんだろうなと思いました」 ◆国家に背を向けた人々の〝聖域〟─無戸籍者たちの谷(埼玉県秩父市ほか) 《日本の無戸籍者に関する新聞記事を目にしたのは、今から五年ほど前のことだった。神戸大学のデーターベースに保管されていたものだった。記事は戦前のもので、1920(大正九)年9月30日付けで、大阪毎日新聞に掲載されていた。ちょうどその年は、日本で初めての国勢調査が行われた年でもあった。その調査の過程で、無戸籍者の存在が公のものとなったのだった。》 記事によれば、埼玉県秩父郡三国峠山麓などに「無施政無警察」の部落があり、その一つは31戸で人口210余人だったという。住民の中には群馬県上野村に籍をおく者がわずかにいるのみで多くの住人には戸籍がなかった。住民たちは木箸や下駄材を1日かけて群馬県に売りに行くことで生計をたてており、学校もどこかから来た老僧が寺子屋式で行っていたという。現地は相当に山深い場所で秩父から行くのには山梨県側から回りこまなければならず、居所もよく分からない人間のために何日もかけられないということで県が調査を放棄したという内容だった。 「秩父のあの辺は結構広いんですよ。東京の奥多摩とか、山梨とか長野にもまたがっていて行政圏も入り組んでると思うんですけど。でも住んでいる人には関係ないですよね。さっきも言ったようにそこに行くと荒川の源流となる水があって、確かに人が生活できる場所だった。 明治に近代国家をスタートさせるにあたって国は、まずはしっかりと戸籍を作って人間を登録することから始めました。そこから外れた人たちがいたっていうところに、僕はすごいロマンを感じたわけですよね。 現在ではマイナンバーカードが出てきて国が個人単位で管理できる体制になってきているじゃないですか。だけど結局、『男』と『女』というジェンダーの枠ではおさまらない人たちが出てきているわけですよね。だから国家が簡単に人間を記号化して分類できるもんじゃないと。人間なんてものすごく曖昧なもので、誰かの都合で勝手にラベルを貼るなよということをこの取材をした時には感じましたね」 ◆飢饉で全滅した三つの村─秋山郷(長野県下水内郡栄村ほか) 《私が向かっていたのは、かつてあった甘酒村という名の村である。名前の由来は、字のとおり、酒を作っていたことからついたそうで、何とも言えぬ生活の匂いが漂ってくる。今では廃村となってしまっているが、廃村となった理由は情緒ある名前とは対照的に極めて悲劇的である。江戸時代には飢饉が頻発したが、三大飢饉のひとつである天保の飢饉ですべての村人が飢え死にしたのだ。》 秋山郷で稲作が行われるようになったのは明治時代からで、江戸時代には稗や粟などの雑穀や蕎麦が主食という貧しい土地だった。甘酒村が全滅したのは天保の飢饉(1833~1839年)だが、その少し前の天明の飢饉(1782~1788年)でも大秋山村と矢櫃村という二つの村が全滅している。秋山郷ではそれ以外の地区でも飢饉によって多数の死者が出ているが、かろうじて全滅だけは免れている。 「秋山郷ってすごく広くて、中心部に民家が現存していて資料がちょっと展示されている。甘酒村とか大秋山村とか、全滅した村は少し外れになるんですよね。村が消えたところは何もないです。墓だけ。ただ土地が平たくなってて、そこに建物があったんだろうなっていう風景と墓石が残っているだけでした。 だだ、秋山郷の取材では、本当に怖さを感じました。他人事じゃないというか、われわれってきわめて危ういバランスの上で生きているんだなって感じました。食料自給率だって今40%ぐらいですか。そんな状況でこの当時よりはるかに人口も増えてるわけじゃないですか。 この本の『菅江真澄が通った村』という章では10万人の餓死者を出した弘前藩の話を書いていますが、それも同じ時代。全国各地でこういうことが起こっていたんだと思います。だからたまたまこの数十年は食べ物に困ることはなかっただけで、実はわれわれは恐ろしい時代を生きているんだなって思いました。『忘れられた日本史』っていうタイトルだけど、忘れちゃいけないんですよね」 その土地のわずかな人たちの間だけで語り継がれていること、すでに語り継がれることさえなくなったこと──。教科書や物語で知ることのできる歴史ではない、そういった〝忘れられた日本史〟も、われわれの先人たちが紡いできた歴史なのだ。そういった歴史を知ることは、自分の現在地をあらためて確認するための手がかりとなるのかもしれない。 『忘れられた日本史の現場を歩く』(八木澤高明・著/辰巳出版)
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