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人気作家のさくら剛さんが、世の中の「主義・思想」をユーモアたっぷりに、そして皮肉たっぷりにご紹介する哲学・超入門エッセイ。価値観が多様化する現代、人生というダンジョンに地図もなく放り出された私たちは、これからどう生きるべきなのか? 第1回に続き、第2回でも「相対主義」について取り上げます。 *本記事はさくら剛氏の著書『君たちはどの主義で生きるか ~バカバカしい例え話でめぐる世の中の主義・思想』(ウェッジ)の一部を抜粋したものです。【前編】からの続き 相対主義は、紀元前5世紀、今からおよそ2500年も前にこの世に生まれました。古代ギリシア・アテネで民主制が発展したことにより、政治家の弁論術として考案されたのが発端です。 古代ギリシアの哲学者プロタゴラスは、「人間は万物の尺度である」という言葉を残しています。 「尺度」は、定規とか物差しのこと。人間は万物の尺度というのは言い換えると「人はみな、自分なりの主観的な物差しで物や事を認識するのだ」ということです。主観的なので、人によってバラバラというのがポイント。その人がどのような尺度を設定するかによって、物事の受け止め方や評価はガラッと変わるんです。新選組の側に立つか龍馬の側に立つかで善悪の概念も180度変わってしまうように。 新選組以外にも、いろいろ具体例を考えてみましょう。 これはどうでしょう。「富士山」は、大きいでしょうか? それとも、小さいでしょうか? ……はい。そうです。正解は、「人それぞれ」です。 富士山が大きいか小さいかは、相対的=見る人によって変わる、のです。普通の日本人の感覚では大きいでしょうが、ネパールのシェルパや、国際宇宙ステーションから地球を見下ろしている若田光一さんにとっては、富士山なんて小さな存在でしょう。「大きい」のか「小さい」のか、どちらかが正しいわけではなく、「両方正しい」のです。 次、これはどうでしょう。「高校生」は、若いでしょうか? それとも、もう若くはないでしょうか? そうです、この答えも「人それぞれ」になります。 大人からすれば、10代の高校生など若さの象徴にしか感じられないでしょう。しかし先日私が女子プロレス団体「スターダム」の試合を見ていたところ、現役女子中学生レスラーが、現役女子高生レスラーを「こぉのクソババア~~~ッ!!!」と罵りながら蹴り倒していました(本当です)。 私からしたらどっちも子供なのに、中学生から見れば高校生なんてもうババア扱いという。17歳でババアだったら、アラフィフの私はもう化石も通り越して化石燃料なのでは……と、私はリングに上がってもいないのに胸が痛くなったものです。そしてまた、女子高生をババアと認識しているならもっとババアを大事にしろよと、高齢者をマットに投げて顔面を踏みつけるとは何事だと、敬老精神のない中学生レスラーを説教したくなりましたが、ともかく人の若さだってまた、相対的なものなのです。
あたなは「英語を話せますか?」
さらに次です。テストの点数などで絶対評価を受けがちな「自分は勉強ができるかできないか」の認識なんかも、尺度次第で変わったりするのです。 語学を例にしてみますが、「英語を勉強している日本人」って、自分で「僕、英語喋れますよ」とはまず言わないものです。日本人の英語学習者100人に「Do you speak English?(英語喋れる?)」と聞けば、98人は「I can’t speak English!(喋れません!)」と胸を張って自信満々に答えることでしょう。 私もそうです。かれこれDMM英会話を2年間続け、レッスンではたまにスラスラ喋ることもありますが、「英語喋れる?」と問われたら、答えは迷わず「I can’t speak English!」です。たとえあと40年DMM英会話を続けたとしても、87歳になった私は「I can’t speak English……」と遺言を語りながら死んでいくことでしょう。 なぜかというとまず、日本人は謙虚なんですよね。「自分はできる奴だぜ!」という態度を出すと顰蹙を買いかねない、謙遜を美徳とする文化に我々は生きているため、自分で「I do speak English!(俺は喋れるぜ!)」とはなかなか言えない。 その上でさらに、多くの日本人は「英語が喋れるかどうか」を判断する時に、海外の映画やドラマを尺度にしてしまうんです。あるいはアメリカ大統領の記者会見とか、BBCニュースとか。 そんな厳しい尺度を設定してしまうから、我々は「英語学習年数」と「『I can’t speak English』を言い続ける年数」が永遠に同じ、という悲しい事態を招いてしまっているのです。 しかし、それが外国の人だとまた違う尺度だったりするんです。 私は一時海外を貧乏放浪していたことがあるんですが、例えばインドなどでは、尋ねてもいないのに「アイ キャン スピーク ジャパニーズ!(俺は日本語が喋れるぜ!)」と得意気に主張して来るタクシーの運転手なんかがいたりします。そこで「えっすごいですね、じゃあなんか喋ってみてくださいよ」と求めてみると、運転手さんは唐突に「ナカター‼ テリヤキーー! ソンナノカンケーネー、オッパッピー‼」と大声で叫び、それで終わりだったりします。いやそれだけかよっ!!! と、さすがにこちらもツッコまさせられるという。 でも、私の尺度では彼は「日本語喋れない人」ですが、彼の尺度では彼は「日本語喋れる人」なんですよね。人間は万物の尺度なのだから、彼の尺度で測れば彼は日本語が喋れるんですよ。そこに正解も間違いもないんですよね。……………。まあ、いったい彼はなにを尺度に設定したのかはちょっと聞いてみたい気がしますが……。そのへんの牛を尺度にしたんですかね? 余談ですが、インドのお隣のパキスタンやイラン、バングラデシュなどの国では本当に「日本で働いていたことがあるので日本語ペラペラの人」によく出会いました。ただ、「日本で働いていたことがあるので本当に日本語ペラペラの人」は、「うわー日本語お上手ですね!」と褒めると、意外と「いえいえ、ワタシの日本語はまだまだデスよ」と謙遜したりするんですよ。 「日本語」と「日本人的な謙虚さ」みたいなものって、きっと分割不可能で、抱き合わせで習得されるのではないかと思います。だから日本語ペラペラのイラン人やパキスタン人は謙虚で、一方で日本語喋れないテリヤキ運転手とかは「俺は日本語が喋れるぜ~!」とおごり高ぶって言えてしまうのでしょう。まあ尺度は人それぞれだから言っても全然問題ないんですけどね……。 相対主義が生まれた当初、つまり古代ギリシア時代には、「自然の事象に相対主義を適用するのは難しい」と考えられていました。例えば「太陽が昇る時間や沈む時間は誰にとっても同じ=絶対的」のように。 ところが、アテネ市民の中では日の出や日没の時間が同じでも、他の大陸に住む人にとっては違います。実は地球は丸かったので、時差があるんですよね。アテネの人々が絶対的だと信じて疑わなかった太陽の昇る時間すら、実は相対的なものだったわけです。
さらに20世紀になると、アインシュタインが発表した相対性理論によって、「時間の流れ」ですら人によって異なる、相対的なものであったということが明らかになります。 一般相対性理論では、「重力が強いと時間が遅れる」ということがわかっています。地球の重力は地球の中心に近いほど強く、遠いほど弱いため、海辺に住んでいる人と山の上に住んでいる人では、重力の強い海辺に住んでいる人の方がわずかに時間の進みが遅れることになります。ということは、山に住んでいる人の方が歳を取るのが早いのです。もっとも、同じ地球上であれば重力の差などたかが知れているので、誤差の範囲ではありますが。参考までに、高度2万㎞の上空を飛ぶ人工衛星で、地上より早く進む時間は1日あたり100万分の38秒となります。 このように、古代には絶対不変だと思われていた「時間」すら、実は相対的な存在だったということが今ではわかっています。それならば「正義」や「道徳」や「善悪」のような曖昧なものにはなおさら絶対的な正解などあるわけがなく、結局のところあらゆるものは「人それぞれ」ということになるのです。他人の価値観や思想について、いちいち「これが正しい」「あれは間違っている」とジャッジするよりも、「みんなちがって、みんないい」と、お互いを尊重しながら過ごした方が気持ち良く日々を送れそうですよね。
相対主義の物語は面白くない?
もし新選組の沖田や土方、攘夷派の望月や宮部が相対主義者でいてくれたら、池田屋であんなに人が死なずに済んだのになと思います。 新選組と攘夷派志士たちが、互いの思想を認め合ってくれていたら。斬り合うのではなく、「攘夷派さんも一理ありますね」「いえいえ新選組さんこそごもっともです」「では先斗町で一献いかがですか?」「それはよいですなあ」と、互いにリスペクトを持って交流してくれていたら……。もしそうだったら、なにが面白いんだそんな新選組……。人が死なない大河ドラマなんてなにも面白くないよね……卑怯な作戦で相手を殺してこその新選組なんだから……。 考えてみれば、相対主義は「みんなちがってみんないい」で争いを消し去る主義なので、とりわけ男子が好むような物語は、相対主義が採用されたら軒並みつまらなくなりますね。「人類も巨人も、みんなちがってみんないい」「青銅聖闘士(ブロンズセイント)も黄金聖闘士(ゴールドセイント)も、みんなちがってみんないい」「嬴政も羌瘣も蒙驁も麃公も肆氏も録鳴未も楊端和も、みんなちがってみんないい」と和気あいあいやっていたら、「進撃の巨人」も「聖闘士星矢」も「キングダム」も人気低迷で連載が終わってしまいそうです。敵同士が互いを尊重する少年マンガなど、誰が読みたいものか。 が、しかし、物語と現実社会は別です。 娯楽のストーリーで思い切り対立を楽しむ分、現実の世界では相対主義に基づき対立せず干渉せず自分の好みに従って自由に生きる。 主義としてはもっとも古いもののひとつですが、価値観の多様化した21世紀にこそ最大の効用を発揮するのが、この相対主義だと言えるかもしれません。
さくら剛
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