Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/51dda4d61d07d10e46b1f6bc0d15516f84c9d3bb
ご存じの方もいると思いますが、2027年1月に南極の昭和基地が開設されてから70年になるそうです。この南極観測70周年に伴って、国立極地研究所では来年1月にかけて70周年イベントを開催するとのことです。 1956年11月に第1次隊が観測船「宗谷」で日本を出発、1957年1月に昭和基地が開設されて日本の南極観測が始まりました。南極観測70周年は、あらためて南極探検の歴史を振り返るよい機会になると思います。 この日本の南極観測開始から35年前の1911~1912年には、ノルウェーのアムンセン隊と英国のスコット隊による、南極点の初制覇をめざした壮絶な争いがありました。先に南極点に到達したのはアムンセンですが、スコットはその1カ月後に南極点にたどり着き、壮絶な悪天候の中の帰途で遭難し、不帰の人となりました。 北極点に続き、南極点も先を越された大英帝国は国家の威信をかけて、第三の極地としてエベレストをめざすことになり、1924年のマロリーの謎、そして1953年のヒラリー(英国)とテンジン(ネパール)のエベレスト初登頂へと歴史が続いていきます。 今回のコラム記事の舞台は南極です。南極点は南極高原(平均標高3000m)の一角にあり、標高2835mです。徒歩でそこにたどり着くためにはロス棚氷(たなごおり)から入って、南極横断山脈の切れ目である氷河を登って南極高原まで上がらなければなりません(図1)。 そして、スコット隊の遭難の焦点は山岳に囲まれたロス棚氷における特殊な気象環境であり、山岳気象のテリトリーとなります。NOAA(アメリカ海洋大気庁)の20世紀再解析データ・バージョン3(20CRv3)を使って当時の南極の気象状況を再現し、スコット遭難の真因を探ってみました。
初制覇のアムンセンと、後塵を拝したスコットの悲劇
1909年に北極点を初制覇したピアリー(米国)に続いて、1911~1912年にアムンセン(ノルウェー)とスコット(英国)が南極点の初制覇を争っていました。有名な話ですので多くの方がご存じと思いますが、スコット遭難の悲劇の概要をまとめてみました。図2にそれぞれのルートを示します。 図1のようにロス棚氷に対して南極点を上にすると、ロス棚氷では下側が北、左側が東ですので、通常の見慣れた地図とは南北と東西が逆になってしまい、わかりにくいため、図2はロス棚氷に対して南極点を下側にしています(図5を除いた以降の図も同様です)。 -------------------- アムンセン隊は1911年10月19日にクジラ湾からの未踏破ルートで南極点をめざした一方で、スコット隊は同年11月1日にロス島のエバンス岬からこれまでの英国隊が踏破済みのルートを通って南極点に向かって出発した。補給デポを設置しながら南極大陸を内陸へ進み、12月にはビアードモア氷河を登って南極高原に到達した。厳しい寒さと強風、馬の相次ぐ死、雪上車の故障など、行程は当初の計画よりも遅れ気味であった。 1912年1月4日、スコットは最終アタック隊の5名を選抜し、残る隊員を帰還させた。最終隊は1月17日に南極点へ到達したが、そこにはすでにアムンセン隊が設置したノルウェー国旗が翻っており、スコット隊は約1カ月遅れでの到達となった。スコットは日記に「おお神よ、ここはただ恐怖の場所なり。この甚だしい労苦の後、一番乗りの名誉さえ報いられず、怖ろしき極みなり」(出典:『南極のスコット』、1949年、中野好夫著)と記し、隊員たちは深い失望の中で帰路に就いた。 帰路はさらに過酷を極めた。極端な低温、強風、体力の消耗、そして補給デポまでの距離の長さが隊を追い詰めた。2月17日にはエドガー・エバンスが負傷と衰弱で死亡し、3月17日にはローレンス・オーツが仲間の負担を減らすために「ちょっと外へ出てみるから」(出典:同上)と言い残して吹雪の中へ消えた。 スコット、ウィルソン、バワーズの3名は最後の補給デポまであと約18kmの地点でテントに閉じ込められ、猛烈なブリザードによって前進不能となった。スコットは3月29日の日記に「(前略)そとはただ荒れ狂う吹雪。もはや好転の希望ありとも思わず。最後まで頑張るつもりなれど、衰弱は日にはなはだしく、最期も遠からずと思う。残念ながらこれ以上筆をとる能わず。ただ、スコット、われら一同の家族の上に厚き保護を願う」(出典:同上)と記している。3名は3月末頃にテント内で凍死したと考えられている。 8カ月後の11月、捜索隊がテントを発見し、スコットの日記と記録が回収された。これにより、スコット隊の壮絶な行程と最期の様子が明らかになり、彼らは英国国内で英雄として称えられることになった。
再解析データで再現した南極の気温と温位の分布
まず真っ先に解析してみたのは、NOAAの20世紀再解析データを使った南極の気温分布の再現です。オーツが死亡した1912年3月17日より少し前の15日21時UTC(世界協定時間)の地表面の気温分布と海面校正気圧(いわゆる等圧線)を図3に示します。 このころ、スコット隊はロス棚氷の途中まで来ていましたが、図3を見るとロス棚氷の西部が低温になっていて、スコット隊のいた辺りは特に気温が低かったことがわかります。スコット隊が厳しい寒さにさらされたことは再現できたと思います。 この極寒の原因はなんだったのでしょうか。南極の悪天候として有名なのはブリザード(激しい吹雪)です。原因は低気圧ですが、図3にはそれほど強い低気圧は見当たりません。また、南極名物として「カタバ風」もあります。カタバ風とは、南極内陸部にある極低温の南極高原から重たい空気が吹き下ろすことによる強風で、風速40m/sにも達することもあって、雪を巻き上げて地吹雪をもたらします。 スコット隊が遭遇した極低温の空気はどこから来たのかを探るために、「温位」という気象パラメータを解析してみました。温位は、外部との熱のやり取りがない限り変わらない保存量で、高度が変わっても変化しないため、南極のように山岳や高原が多い大陸での解析には非常に有効です。わかりやすく解説すると、違う高さの所にある空気の温度を比較するために、すべての空気を同じ1000hPa(約1気圧)の気圧の平地に持ってきたときの絶対温度(単位[K])が温位です。温位を比較して違っていれば、起源が同じ空気ではないということになります。 図3と同じ時刻の地表面の温位分布を解析した結果が図4です。スコット遭難の舞台となったロス棚氷だけでなく、ロンネ棚氷やアメリー棚氷も温位が周囲よりも10~20K低くなっています。ちなみに「棚氷」というのは陸地で形成された氷床(氷の塊)が、氷河のように移動して海上に押し出されたものです。 <図4.1912年3月16日21時UTCの地表面の温位分布と海面校正気圧> つまり図4の3つの棚氷の低温の空気は、極寒の南極の内陸部からやってきたものではないという驚くべきことがわかります。いくら南極の内陸部が極寒でも、平均標高が3000mの南極高原から吹き下ろせば、フェーン現象で30℃ぐらい気温が上がってしまい、棚氷では極寒の空気にはならないのです。要するに、温位が低い=その場で冷やされた空気であり、カタバ風によって内陸から吹き下ろした空気ではないということです。
メカニズムは旭川の日本の最低気温-41℃と同じ
この南極の棚氷で起きていた現象は、実はかつて日本でも起きています。たとえば、八甲田山雪中行軍遭難(筆者コラム記事)の最中に起きた、1902年1月25日の旭川の日本の最低気温−41℃の極寒は、典型的な“冷気だまり”でした。 旭川の記録的な低温は、当時の測候所の観測データから作成された中央気象台(気象庁の前身)の天気図によると、旭川のある上川盆地の極めて狭い範囲に限定されており、強い放射冷却による極寒の空気が盆地にたまったためです。冷たい空気は周囲の空気より重いため、盆地にたまりやすいのです。 南極においても、海上に浮かぶ棚氷は、一方が海に向かって開けているものの、上川盆地と同様に山に囲まれて放射冷却による極寒の空気がたまりやすいことが、棚氷で温位が低くなっている原因と思われます。この蓄積された寒気が、極低温のブリザードとなってスコット隊を襲ったのではないかと推定しています。 実は八甲田山雪中行軍遭難の気象状況を再現した時には、旭川の極寒は再現できませんでした。これは上川盆地が非常に狭い(面積400km²、幅20~30km程度)ので、バージョン2の水平解像度200kmの20世紀再解析データ(20CRv2)のモデルでは解像度が粗すぎて解析できなかったためです。今回は水平解像度が100kmのバージョン3(20CRv3)を使っていますが、これでも旭川の極寒の再現は無理です。 しかし、南極大陸は広大で、ロス棚氷の面積は約49万km²(日本の面積の1.3倍)であり、幅も約600kmあります。一般的に解析可能な気象現象の大きさは、モデルの解像度の数倍以上であることが必要です。600kmスケールのロス棚氷はモデルの解像度の数倍程度の大きさであり、このように日本全土より広いロス棚氷で起きた極寒の現象だからこそ、解像度の粗い20世紀再解析データでも再現ができたということになります。
ロス棚氷における両隊のルート別の気温の再現
前述のように、ロス棚氷の西部(スコット隊のルート)のほうが、東部(アムンセン隊のルート)よりも低温(気温・温位ともに低い)なのがわかります(図3、図4)。これを発見した時、私は強い衝撃を受けました。では、スコット隊が南極点に到達し、撤退を始めてからのロス棚氷での気温はどうなっているのか。それを解析したのが図5です。1912年1月1日~3月31日の南緯80度(解析地点は図2参照)におけるルート別の8時間ごとの地表面の気温推移です。 1月中旬までは気温はそれほど低くなっていませんでしたが、1月下旬から2月上旬にかけて気温が急低下して、スコット隊ルートの方がアムンセン隊ルートよりも10℃近く低温になっています。20世紀再解析データでは解像度が粗いため、極寒は完全には再現できていませんが、スコットの日記によると実際には-40℃以下の極寒になっていたことがわかっています。 いずれにしても、スコット隊ルートのほうが温度的に厳しい状況であったという相対比較は可能です。以降も、おおむねスコット隊ルートのほうが低温になっています。3月10日ころにはいったん気温が上昇しますが、その後の2月中旬以降のスコット隊ルートは極寒が続き、気温が低下するタイミングでスコット隊のメンバーが亡くなっています。スコットの日記と、この解析結果を重ねると、当時のスコット隊が置かれていた過酷な状況が鮮明に浮かび上がります。
このように、スコット隊のルートの方が低温になりやすい理由は、山岳地形にあると考えています。図6にNASAによるロス棚氷の周辺の3Dモデル図を示します。スコット隊のルート側の奥には南極横断山脈がそびえていて、極寒の空気をせき止めるのに対して、アムンセン隊ルート側の山岳は比較的なだらかで冷気が逃げやすいことが推測できます。 もう1つの衝撃的な解析結果を図7に示します。これは1900年から1920年の南緯80度におけるルート別の3月の地表面の平均気温の推移を示したものです。図5と同じく、実際の気温は図7よりも10℃ぐらい低かったと推定されますが、年ごとの3月の平均気温の相対比較は可能です。スコット隊が遭難した1912年においては、スコット隊ルートの気温がこの21年間で最も低くなっていることがわかります。不運にもスコット隊は最悪の年に、最悪のルートを選んでしまったことになります。 <図7. 1900~1920年の南緯80度におけるルート別の3月の地表面の平均気温推移>
現在の南極点ツアーはどうなっているのか
現在では「南極点ツアー」という旅行があります。ツアーはロンネ棚氷側から実施されていますが、アルゼンチンから飛行機で棚氷を避けて、一気に南極大陸最高峰のビンソンマシフ(4892 m)の麓にあるユニオン氷河の基地まで入ります(図1参照)。ここから南極点やビンソンマシフをめざしたり、あるいは周辺のツアーを楽しんだりしています。 南極点ツアーでロンネ棚氷を避ける理由は、気候変動で棚氷が不安定(崩壊など)になっていることや、棚氷に亀裂が入りやすく飛行機の発着に不利などの理由に加えて、今回の解析で明らかになったように、棚氷は地形的に低温になりやすいことが挙げられると思います。 図8は、同じ20世紀再解析データで解析した当時の1901年~1920年(左)、現在の1996年~2015年(右)の20年間の地表面の平均温位の分布です。図8は季節変動の影響を避けるため、3月ではなく年間を通じた20年間の平均温位を示しています。なお、20世紀再解析データは1806~2015年のデータがあり、2015年が最新となります。 図8では変化が小さい場所もありますが、おおむねこの95年の間に2~4℃ほど南極大陸と周辺の気温が上昇していることがわかります。ロス棚氷は気温上昇が比較的小さいエリアですが、昔も今も年間を通じて、平均にしても冷気がたまりやすい場所であることが図8から読み取ることができます。 なお、南極の棚氷が年々崩壊している映像が温暖化の象徴のように流れることがありますが、最新の研究では南極の棚氷の崩壊は、大気の温暖化というよりも、棚氷の下を暖水が侵入するようになったためと言われています。この事実は図8でロス棚氷の気温上昇が小さいことと矛盾しません。棚氷の崩壊の原因は大気ではなく、温暖化した周囲の海にあったのです。
エピローグ(終章)
1956年、米国によって南極点に2人の名前を冠したアムンゼン・スコット基地が設置され、年間を通じて貴重な観測を続けています。その観測データによる南極点の月ごとの平均気温(1991-2020年の30年間のデータの平均)を図9に示します。 南極点では春分の日(9月)から秋分の日(3月)までが太陽が沈まない白夜、秋分の日から春分の日までは太陽が昇らない極夜となります(日本とは季節が反対であることに注意)。南極の夏は短く、2月から3月にかけて急激に気温が下がっていきます。装備に劣っていた当時の状況では南極点からの生還は、まさに「時間との戦い」であったことがわかります。 スコットは輸送手段として馬を使いましたが、寒さに弱く体重が重い馬は南極の雪上では使い物になりませんでした。そのため途中から人力での輸送に頼らざるを得ず、気温が急激に低下する3月になっても帰還することができませんでした。これはスコット遭難の大きな要因として従来から言われてきました。 このように帰還時期が遅れたことに加えて、ロス棚氷における極寒の空気がたまりやすい特殊環境が追い打ちをかけたということが、従来にない新しい知見となります。さらに、アムンセン隊ルートに比べて、スコット隊ルートは山岳地形的に寒気がたまりやすく、しかもスコット隊ルートの低温が当時(1900年から1920年)の最悪の条件であったという不運が重なったことも判明しました。 条件が厳しくない年であれば、スコット隊も生還していたかもしれません。単なる南極点制覇にとどまらず、学術調査も兼ねて南極点をめざしたスコット隊の行動(最後まで16kgの重い標本を運搬)は、たとえ南極点到達が二番手となっても賞賛されるべきものであったと思います。
-------------------- 大矢康裕 気象予報士No.6329、株式会社デンソーで山岳部、日本気象予報士会に所属し、山岳気象の研究や山岳防災活動を実施している。2017年には日本気象予報士会の石井賞、2021年・2024年に日本気象予報士会の木村賞、2025年には日本気象学会の小倉奨励賞を受賞。著書に『山岳気象遭難の真実 過去と未来を繋いで遭難事故をなくす』(山と溪谷社) --------------------
大矢康裕------------------







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