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● 盛田昭夫と二人三脚で ソニーを創業した井深大 神戸市灘区にある兵庫県立の神戸高校。硬軟両方面に、多くの俊英を送り出している伝統校だ。 特筆したい卒業生がいる。井深大(まさる)だ。盛田昭夫(旧制愛知県第一中学・現旭丘高校卒)と二人三脚で、ソニーを創業した。神戸高校の前身である旧制兵庫県立第一神戸中学を卒業後、第一早稲田高等学院―早大理工学部と進学、学生時代から「走るネオン」といった奇抜な発明をしていた。 井深は、独自技術の開発にチャレンジし続けた。敗戦直後の日本に「ベンチャースピリット」などという言葉はなかったが、その精神の塊だった。テープレコーダー、トランジスタラジオ、トリニトロンテレビ、ウォークマンなど日本初、世界初の製品を次々と世に送りだし、電子立国日本の立役者となった。 井深は1992年、「電子技術」という分野で文化勲章を受章した。産業人でこの賞を受賞した初のケースだった。神戸高校内にある研修会館・一誠会館には、井深の功績をたたえる井深記念ホールがある。 高度成長にも乗って、ソニーは世界的な大企業となった。米アップル社のカリスマリーダーで、2011年に死去した最高経営責任者(CEO)のスティ―ブ・ジョブズがお手本にした会社が、ソニーだった。 だがその後、新製品開発に行き詰まり、「ソニー神話の崩壊」に何度も見舞われた。2012年3月期決算では、当期純利益で4期連続の赤字を出し、大幅な人員整理に追い込まれた。 この数年で鮮やかによみがえった。25年3月期のソニーグループ連結決算では、売上高は13兆円弱、純利益は1兆1416億円を記録した。「ものづくり企業」からすっかり変身し、音楽、映画、ゲームなど「コンテンツ制作」で利益を稼ぎ出している。
井深らは終戦直後の会社設立趣意書に「自由豁達ニシテ愉快ナル理想工場ノ建設……」と宣言している。井深は1997年に死去しているが、この思いは実現されているだろうか。 ● GHQと渡り合った白洲次郎や 経団連会長の筒井義信も 日本生命保険の前会長・筒井義信(1954年生まれ)は、2025年5月から日本経済団体連合会(略称・経団連)の会長に就いている。神戸高校を経て京都大経済学部卒。日生の生え抜きで2011年に社長、18年に会長になり、25年3月からは特別顧問となっている。 大手企業を中心に構成される経団連は、財界3団体の中でもっとも影響力が強く、その会長は「財界総理」と称される。筒井がこのポストに就いたのは、いささか異例だった。 経団連会長ポストは製造業出身の経営者が就くのが暗黙のルールになっており、金融界出身者が就いたのは筒井が初めてだ。前任の十倉雅和(兵庫県立西脇高校卒)は住友化学出身、その前の中西宏明(東京都立小山台高校卒)は日立製作所出身だった。 株式非上場企業である日生出身であることも異例だ。また25年には、日生から三菱UFJ銀行に出向していた社員が、同行の内部情報を無断で持ち出していた問題が表面化した。 大蔵事務次官をした松下康雄は、太陽神戸銀行頭取などを経て、日本銀行の第27代総裁になった。1997、98年の金融危機に十分対応できず、日銀の不祥事も発覚して引責辞任した。 住友電気工業社長をした亀井正夫は、国鉄再建監理委員会委員長などもした。 実業家という枠にとどまらず、敗戦後の復興期にオピニオンリーダーのような役割を果たした白洲次郎は、旧制神戸一中が誇る個性的な人物だ。英ケンブリッジ大に留学、元首相吉田茂(旧制東京私立正則尋常中学・現正則高校卒)の側近として連合国軍総司令部(GHQ)と渡り合い、経済安定本部次長、貿易庁長官、東北電力会長などを歴任した。 妻の白洲正子(東京私立聖心語学校・現聖心インターナショナルスクール中退)はハイソな趣味人で、この20年余、夫妻を称賛する書籍が何点も出版され、テレビドラマにもなった。
● 大企業のトップとして 活躍する多くの卒業生たち 日銀出身の堀越禎三は経団連事務総長などを長く務め、財界活動に打ち込んだ。 久万俊二郎は1982年に阪神電気鉄道社長に、84年からは阪神タイガースのオーナーに就任した。翌85年に21年ぶりのリーグ優勝、日本一を経験したがその後低迷した。 95年に野村克也、2002年に星野仙一を監督として招聘(しょうへい)し、03年にはリーグ優勝した。20年間にわたり務めたオーナーの座を、04年に退任した。 坂井信也も阪神電気鉄道、阪急阪神ホールディングス代表、阪神タイガースのオーナーを務めた。 伊藤淳二は45歳にして鐘紡社長に就き、多角化路線を推進した。1985年に中曽根内閣による日本航空の民営化方針を受け、同社副会長、会長に就いた。 繊維業界では伊藤のほかに、大谷一二(東洋紡)、小寺新六郎(ユニチカ)、田中敦(クラボウ)、小林正夫(シキボウ)らのトップ経験者がいた。 さらに大企業のトップを務めた経営者を挙げると、朝倉次郎(川崎汽船)、岡崎忠雄(神戸銀行)、亀井忠夫(日建設計)、牧野耕二(住友信託銀行)、新宮康男(住友金属工業)、亀高素吉(神戸製鋼所)、長谷川薫(レンゴー)、春名和雄(丸紅)、伊藤正(住友商事)、徳増須磨夫(住友海上火災保険)、大西和男(住友林業)、七代目嘉納治兵衛(白鶴酒造)らがいる。 橋本雅博は2014年に住友生命保険の社長に就任し、17年から1年間、生命保険協会会長を務めた。21年には住生会長になり、25年3月に中央教育審議会会長に就任した。 さらに最近の経営者では、現役も混じるが、三野哲治(住友ゴム工業)、木下盛好(アコム)、北尾吉孝(SBIホールディングス)、尾野俊二(みなと銀行)、益本康男(クボタ)、知識賢治(日本交通),坂井辰史(みずほフィナンシャルグループ)らがいる。 ベンチャー企業の創業者では、木南陽介が再生可能エネルギー発電施設の開発・事業会社であるレノバを創業した。同社は2017年に東証マザーズ市場に上場、18年には東証1部へ市場変更した。現在は東証プライム市場だ。木南は神戸高校を経て京大卒だ。
● 元参院議長の扇千景や 安保闘争で亡くなった樺美智子も 政官界では、参院議長(2004年7月〜07年7月)や初代国土交通相などを歴任した扇千景がいた。神戸高校卒業後,宝塚歌劇団に入り、退団後は多くの映画やテレビに出演した。「私にも写せます」という8ミリカメラのCMなども大ブレークした。23年3月に死去した。 自民党の典型的なタレント議員として参院議員になったが、上手に政党を渡り歩くなどの遊泳術を発揮した。夫は、歌舞伎役者で人間国宝・文化勲章を受章している四代目坂田藤十郎(旧制私立東山中学・現東山中・高校卒、2020年11月死去)だ。 戦前の労農党の政治家で、「山宣(やません)」の愛称で親しまれた山本宣治は、旧制神戸中学を中退している。 英語の同時通訳の草分け的存在で、参院議員をした国弘正雄は東京府立六中(現都立新宿高校)から神戸一中に転校してきた。 元参院議員で厚相を務めた山縣勝見、衆・参院議員を務め、内閣官房副長官などを務めた鴻池祥肇(よしただ)、日本共産党所属の元衆院議員・正森成二も卒業生だ。 現職の国会議員では、日本維新の会所属の衆院議員が2人いる。医師出身の伊東信久(4期)と、兵庫県議出身の和田有一朗(2期)だ。 「第1次安保世代」という言い草がある。1960年ころ大学生だった世代の人を指す。この人たちにとって脳裏に焼き付いている人物がいる。東大生だった樺(かんば)美智子だ。 1960年の岸信介(旧制岡山県立岡山中学・現岡山朝日高校を中退し、旧制山口県立山口中学・現山口高校卒)政権の時代に、日米安全保障条約の新条約制定をめぐって革新勢力の間で反対運動が燃えさかった。樺は全学連主流派の一員として国会議事堂に突入した際に、警官隊と衝突、60年6月15日に死亡した。 樺は神戸高校から東大文学部に進み、当時22歳だった。1967年に中国共産党機関紙の人民日報は、「樺美智子は日本の民族的英雄になった」という毛沢東(湖南全省公立高等中学・現長沙市第一中学卒)のコメントを掲載した。
「官」では、24年8月に第21代最高裁判所長官に就いた今崎幸彦がいる。京大法学部卒で、在学中に司法試験に合格、刑事裁判官としてキャリアを積んできた。司法行政を担う最高裁事務総局の中枢を歩み続け、裁判員裁判の制度設計にも携わった。 伊原義徳は科学技術事務次官のあと日本原子力学会会長などを歴任し、原子力行政に深くかかわった。 野田健は、警視総監のあと内閣危機管理監を務めた。 テレビ記者出身の根本かおるは、東京国連広報センター所長だ。 石川雅恵(かえ)は国連人口基金資金調達官を経て、UNウィメン日本事務所所長などを務めた。 通産省出身の弁護士・佐野忠克は、細川護煕首相(東京・私立学習院高等科卒)の事務担当秘書官を、また鳩山由紀夫首相(都立小石川高校卒)の政務担当秘書官を務めた。 ● かつての京大合格者数と比べて 最近の進学実績が低迷している背景 神戸高校は、普通科8クラス、総合理学科1クラスからなり、全校生徒1000人を超える大規模な高校だ。 勉学では、「課題研究」や「神高探究」に取り組み、文部科学省から2004年度から5期20年にわたりSSH(スーパーサイエンスハイスクール)の指定を受けてきた。 2025年春の大学入試(25年4月入学)では、現役、浪人合わせた合格者は東京大3人、京都大25人、大阪大30人、神戸大53人、兵庫県立大30人、大阪公立大28人、北海道大13人、名古屋大4人などだ。 このうち現役だけの国公立大合格者は184人。25年3月の卒業生数は353人だったので、その比率は52%だった。 私立大については延べ人数で、関西学院大168人、同志社大、立命館大に各118人が合格している。 神戸高校は伝統的に東大よりも京大を選択・受験する生徒が多いが、京大合格者は毎年度、30人前後にとどまっている。東大合格者は数人だ。往時は京大ベスト10に入る常連校だった。例えば1968年などは、京大に69人の合格者を出して全国4位だった。だからこそ全国ブランドになっていた。それと比べると、最近の進学実績は低迷している。 背景は、はっきりしている。灘高校(神戸市東灘区)、甲陽学院高校(西宮市)など兵庫県内にある6年制中高一貫の私立校に優秀な生徒が吸引されているのだ。それに小学区制という大きなハンディもある。 ただ、小学区制で学区内に居住する中学生の人数が少ないことを考慮すると、それなりに健闘している、とはいえる。兵庫県の公立高校では、東大、京大、大阪大、神戸大の4大学合計の合格者数が進学実績の指標となっているが、神戸高校は毎年度100人以上で、長田高校、姫路西高校などの県内の有力公立高校と拮抗(きっこう)しているのだ。
● 全国高校サッカー選手権で 歴代最高記録となる7回優勝 神戸高校は「質素剛健」「自重自治」を四綱領と呼んでいる。受験勉強に明け暮れるのではなく、ほとんどの生徒が部活動に取り組み、自己実現を目指している。「文武両道」を貫いている、ということだ。 部活動では、ボート部や馬術部、かるた部など、他校にはあまりないバラエティーに富んだ部も含めて、44もの文化部、運動部などがあり、ほとんどの生徒が何らかの部に属し、熱心に活動している。 創立以来、輝かしい記録を残した部もある。 硬式野球部は、旧制時代に選抜高校野球大会(現在の春のセンバツ甲子園大会に相当)に3回、夏の全国大会(現在の夏の甲子園大会に相当)に4回出場した古豪だ。 全国高校野球選手権大会の地区大会に1915年の第1回から皆勤出場している高校は全国で15校しかないが、神戸高校はその中の一校に数えられる。 プロ野球では、中沢不二雄が初代パシフィック・リーグ会長を務めた。1959年6月に開かれた展覧試合(巨人対阪神戦)において、昭和天皇・皇后への解説を担当した。 サッカーは「校技」と言えるほど盛んだった。全国高校選手権に25回出場し、うち7回優勝している。現存する高校の中では歴代最高記録だ。ただし、1980年代以降は低迷し、全国大会出場からは遠ざかっている。 多くの有力選手が育った。日本代表選手になった者は、累計で20人を超え、日本サッカー殿堂入りした選手も数人いる。 例えば戦前の神戸一中卒には日本代表選手として、東洋紡績会長をした大谷一二や慶応大で活躍した右近徳太郎、1956年のメルボリン五輪に出場した鴇田正憲らがいた。戦後の1951年の第1回アジア競技大会サッカー競技では、選手枠16人のうち10人までが神戸一中のOBだった。 日本サッカー協会の13代会長をした大仁(だいに)邦彌も、神戸高校の卒業生だ。慶応大ー三菱重工業に進んで活躍したのち、サッカー指導者になった。 長岡康規は元兵庫県サッカー協会会長で、国際審判員としても活躍してきた。 1924年生まれの賀川浩は、1974年の西ドイツ大会から40年間もサッカーW杯を取材してきたサッカージャーナリストだ。2015年にはサッカー界の発展に寄与した人に贈られる国際サッカー連盟(FIFA)会長賞を、日本人として初めて受賞した。10年には日本サッカー殿堂入りした。24年12月に99歳で死去した。 ラグビーでは、八幡製鉄副社長を務めた湯川正夫が日本ラグビーフットボール協会会長をした。 奥村竹之助は京大―三菱商事でラグビー選手として活躍、1952年に日本代表監督になった。 花谷泰広は登山家で、神戸高校時代から山岳部に所属し、信州大に進んだ。2012年、ネパールのキャシャール南ピラー(6770メートル)を初登頂した。13年に「登山界のアカデミー賞」の異名を持つピオレドール賞を、同行者2人とともに受賞した。(敬称略) (フリージャーナリスト 猪熊建夫)
猪熊建夫

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