Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/52e5636d1372c6fe0583eb1e4ca05fb00e793dd6
東京地検特捜部長、最高検次長検事など検察の枢要な職を歴任した伊藤鉄男さん(77)。今週、著書『検事の心得』を中央公論新社から出版した。 【写真】元特捜部長「検察官は“神”ではない」 インタビューの前編では、捜査や証拠が「おかしい」と思ったならば、検察官は自ら再審請求をするべきだという異例とも言える提言を紹介した。後編では、検察官が果たすべき役割について、「東京電力女性社員殺害事件」や「足利事件」「福知山線脱線事故」を引き合いに思いを語っている。
無罪のネパール人男性を起訴した判断「間違いとは思わない」なぜなのか
東京電力の女性社員が東京都渋谷区円山町のアパートの一室で何者かに殺害された事件で、1997年、東京地検刑事部はネパール人男性を起訴した。 いくつもの状況証拠があるなか、容疑者は、その女性と面識があったことさえ否定し、それは明らかにウソだった。直接証拠はなかったが、そのままネパールに帰国するのを許せば、捜査の手を届かせることが不可能になる。難しい判断だったが、刑事部副部長だった伊藤さんは、警視庁が逮捕するのにゴーサインを出し、起訴を決裁した。 一審は無罪だったが、控訴審で覆り、無期懲役の判決が2003年に最高裁で確定した。しかし、その後、DNA鑑定の技術が進歩して、別人が現場にいた可能性が出てきたため、再審が行われて無罪となった。 この事件について、伊藤鉄男さんは『検事の心得』に、「今でも、起訴したことが間違いだったとは思わない」と記した(108ページ)。 『「風雪に耐える捜査」とは、困難から逃げることではない。 (中略) 堂々と裁判所で戦うべきと思う。そのために刑事裁判はあるのだ』 もしネパール人男性を逮捕も起訴もせずにいたとすれば、それこそ、無罪を恐れて楽な選択に逃げ込む、恥ずかしい事件処理だった、ということなのだろう。 「検事が神である必要は全然ない。検事の声が天の声なんて思う必要はない。3審制で決着をつけようっていうのが今の裁判制度で、その上、再審制度もある。だから検事は100%の心証がなければ起訴しちゃいけないなんてことは僕はないと思ってる。(中略)それは検事に託された務めみたいなものだから」 インタビューに伊藤さんはそう語った。
「検察は悪あがきをせず、恥を知るべきだ」
栃木県足利市内で1990年5月に発生した殺人事件の犯人として服役中だった菅家利和(すがや としかず)さんについて、2009年6月4日、東京高検は無期懲役刑の執行を停止し、釈放した。 DNA鑑定の技術が進歩し、新たな鑑定の結果、菅家さんの無実が明らかになった。再審開始決定も無罪判決もそのときは出ていなかったが、伊藤さんは「もう犯人じゃないって分かってしまえば、一刻も早く釈放をしなきゃいかん」とその釈放の判断に関わった。そして、その判断の背景には、免田さんの再審の教訓があった。検察は悪あがきせず、恥を知るべきだ、と考えた。 JR福知山線の脱線事故で、神戸地検は2009年7月8日、JR西日本の山崎正夫社長を業務上過失致死傷の罪で起訴した。107人が亡くなる悲惨な事故で、神戸地検と大阪高検は起訴したい旨を強硬に主張し、伊藤さんは最高検次長検事としてこれを了承した。 「私個人としては、山崎社長の過失の認定はなかなか難しく、起訴すれば無罪になる可能性も大いにある、と思っていた。(中略) 仮に無罪になる可能性があっても、恥ずかしくない起訴なら躊躇する必要はない、という立場である。(中略)迷ったら裁判所の判断を仰げばよい事件もある、という考えだった」(『検事の心得』192~193ページ) 2012年1月、山崎社長は無罪の判決を受け、一審で確定した。 新著『検事の心得』で最も力が入っているのは、死刑囚だった袴田巌(はかまだ いわお)さんを再審で無罪とした静岡地裁の2024年9月の判決に対する批判の言葉の数々だ。 「証拠に基づかない大胆な憶測」 「これほどまでに乱暴な“事実認定”をした判決を見たことはない」 「“印象操作”ではないか」 世論に支持されて確定した判決を敢えて批判するのは、リスクを伴う行為だろうと思われ、これだけは言っておかなければ、という気迫が読み手に伝わってくる。この事件と判決を語るため、あえて最後の1章を割いている。
検事と記者に共通するところ
この原稿の筆者である私(奥山)は1996年6月から99年3月にかけて、東京地検特捜部、刑事部の副部長だった伊藤鉄男さんの“番記者”を務めた。 当時、私は、朝日新聞社会部に所属し、司法記者クラブの一員として検察取材を担当していた。検察担当への会社の期待はとても大きかった。検察が手がける大型経済事件の捜査について特ダネを出すことが至上命題であり、大きな“抜かれ”を回避することがその次の課題だった。 伊藤さんは特捜部でも刑事部でも大型事件を次々に摘発した。▽岡光序治(おかみつ のぶはる)厚生事務次官の汚職、▽友部達夫参院議員らを逮捕したオレンジ共済組合事件とそれに派生する政界工作疑惑、▽のちに中尾栄一元建設相や許永中氏らの逮捕につながる石橋産業事件……。東京電力の女性社員が殺害された事件や岡村勲弁護士の妻が殺害された事件など東京都内の重要な強力犯(ごうりきはん)も伊藤さんの下の本部係に集中していたので、それらの捜査を取り仕切る伊藤さんは、私にとって大切な取材相手だった。 特捜検事と調査報道記者には、共通する側面がある。社会に巣食う構造的な不正や腐敗を発掘して、それに何らかの規範をあてはめて斬り込むことができないかと筋を読み、協力者を探し、証拠を探し、世に問う、という仕事の実質が似ている。事件を追いかけるとき、検事も記者も同じ方角を向いている、ともいえるかもしれない。 筋を読み、証拠を探し、事実を認定する。その営為をめぐって、実のある会話に持ち込もうと検事に挑むのが、検察担当記者の仕事だ。内偵捜査中に、その捜査の内容について具体的な会話に応じてもらうのは至難の業だが、それでも、会話を少しでも豊かにして、より深く踏み込もうと努めるのが記者の性だ。 そういうやりとりの中で、私は、事件の中身というよりも、事件に対する検事の心構えや見方・考え方について、伊藤さんから多くを学んだ。動かない客観的事実を柱に事件を組み立ること、無駄を恐れずに徹底的に捜査すること、いずれも、伊藤さんが『検事の心得』で紹介する「捜査十訓」に盛り込まれている捜査の要諦であり、これは、記者の取材についても、全く同様に言えることだ。“情報”と“証拠”の違いを教えてくれたのも伊藤さんだった。 幸運にも私は、朝晩の取材の場で、伊藤さんから多くを学び、それらを、その後の取材・報道の基礎として生かすことができた。それらは、ジャーナリストであるとともに大学の新聞学科教員でもある今の私が、種々の研修を引き受けた際に若手記者らを前によく説く内容にもなっている。日本記者クラブ賞を2018年に受賞した際の記念講演で、そのように伊藤さんらから学んだことが、その後の取材・報道の基礎になった、と振り返ったこともある。 困難から逃げるのではなく、敢えて立ち向かう勇気が、細心の注意と謙虚さ、恥を知ることとともに、現場には必要だ。この本は、今の検察の現場にいる人たちへの戒めであり、訓示であり、叱咤である。と同時に、それは調査報道の現場にいる記者たちに対しても言えることだと私には感じられる。(了)
【編集後記】だからこそ報道は、今の姿勢でいいのか考えるべきではないか
伊藤鉄男氏は、私がNHKの検察キャップをしていた2010年に、最高検察庁ナンバー2の次長検事を務めていた。鳩山由紀夫首相の「母親からの巨額の小遣い」事件や、小沢一郎氏の資金管理団体「陸山会」をめぐる事件を東京地検特捜部が捜査していた時代で、最高検として捜査の判断にも関わっていた。 しかし最も印象に残っているのは、大阪地検特捜部で発覚した証拠改竄事件である。伊藤氏は次長検事として、極めて素早いスピードで関係者の処分に当たった。「お役所的」とは無縁の迅速な対応に、「いきなり逮捕はやりすぎ」という批判も上がったほどだ。 その対応がなぜだったのか、今回のインタビューでわかった気がする。それが「検事が神である必要は全然ない。検事の声が天の声なんて思う必要はない。3審制で決着をつけようっていうのが今の裁判制度」という言葉だ。検察の捜査は絶対的に無謬であるという前提に立ち、起訴したからには有罪にしなければならないという意識があるからこそ、証拠改竄などということが起きてしまう。検察はあくまで徹底的に捜査をした上で「裁判所に判断をあおぐ」立場であり、それこそが検察官の役割だと伊藤氏は語る。だからこそ、後に無罪になった男性を起訴した行為については、役割として「間違いとは思わない」と結論づけるのだ。そしてそうした役割ゆえに、恣意的な捜査などというものはあってはならず、即座に処断すべきと考えたのだ。 これは、我々報道側は重要なメッセージとして受け止めるべきだろう。検察の起訴は絶対ではないという認識に立った報道がどれだけ行われているだろうか。これだけ冤罪が相次いでも、検察が起訴するかどうか、その一点の情報を取る「抜き合い」だけに関心がある記者は今も少なくない。その結果が、当局の発表だけをもとにして、被告を犯罪者扱いしてしまう報道だ。検察の捜査は無謬で絶対的なものではないということを改めて肝に銘じるべきではないか。 奥山氏の述べた通り、検察と報道の目的や行動原理は、社会正義の実現という点において極めて近しい。私自身、国税・検察当局の方々から多くの手法を学び、真摯に事件に向き合う姿勢に敬意を払わずにはいられない当局者もいる。一方で、だからこそ、強力な捜査権限と情報力を持った検察の活動をも、報道側はウオッチしていく必要があり、報道の在り方そのものをも常に見直していく必要があるだろう。伊藤氏の著書は、そんな重要な示唆をも与えてくれているように思う。(SlowNews 熊田安伸)
奥山俊宏




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