Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/e7a37d9d784aa2596571efbcded67699dd8eb513
【&M連載】隣のインド亜大陸ごはん
インド人、ネパール人、バングラデシュ人……。日本で出会うことが多いインド亜大陸出身の人たち。日本では普段、どんな食事をし、どんな暮らしをしているのでしょうか。インド食器・調理器具の輸入販売業を営む小林真樹(まさき)さんが身近にある知られざる世界の食文化を紹介します。 【画像】油と香辛料、ニンニクの香りがたまらない! ネパール料理の数々(30枚)
「そこ以外で食べることが激減」
多国籍の街・新大久保。JR駅の改札を出たとたん、行きかう老若男女から聞こえてくるのは多言語で、まるで異国のバザールをそぞろ歩きしているような錯覚におちいる。 ここにはネパール料理店が多い。2025年12月現在、約40軒ものネパール料理店がこの界隈(かいわい)にひしめいている。かねてよりネパール料理好きな私は、新大久保周辺のいろんな店で食べ歩いてきたが、去年とある店に遭遇して以来、そこ以外で食べることが激減してしまった。その店こそ、今回紹介するネパール人、キムさんの勤務するエベレスト・カジャガル(以降EKG)である。 細い路地の奥の細道を進んだ先に、EKGはひっそりとたたずむ。派手さを競いがちなほかの料理店とはきわめて対照的だ。控えめなのは立地や外観だけではない。店舗面積もまた狭小なのだ。壁に向けてしつらえられたソファに相対しておかれたイス、真ん中に小さなテーブル。詰めに詰めて10人も入ればいいところだろう。その客席に輪をかけて小さいのが厨房(ちゅうぼう)だ。備え付けられている熱源がIHコンロとカセットコンロが各一個というつつましさ。小さな流しや作業台がある以外はほとんど立錐(りっすい)の余地がないほどだ。こんな学生の住む安アパートの台所程度の調理場で次々に出される料理が、あまたのネパール料理通を唸(うな)らせるほどの絶品なのである。 例えば「カナセット」の名で出されている、ネパール定食のダルバート。真鍮(しんちゅう)製の皿に盛られているのはきれいに成形されたバート(ライス)とあっさりしたダル(豆のスープ)、チキンまたはマトンのジョル(カレースープ)。その脇にはよく漬かった大根の漬物と青菜炒め、タルカリと呼ばれるジャガイモのオカズがつく。基本的におかわり自由で、頼むと初回と等量ないしそれ以上のライスとダル、ジョル(具は入らない)を持ってきてくれる。 うまいのはカナセットだけでない。メニューを開くと「スクティ・オムレツ」なる耳慣れない料理が目に入る。干した山羊(やぎ)肉炒めであるスクティを、たっぷりの油で揚げるように焼いたネパール式マサラオムレツの具にしたもの。何を隠そうこの一品は私がキムさんに頼んで作ってもらったもので、ふと思いついて「塩味の効いたスクティなら卵に絶対合うハズ!」と頼んだところ、当初半信半疑のキムさんだったが、後日訪問するとメニューブックに堂々と載っていて驚いた。 キムさんの料理は、「絶品すぎる!」とか「レジェンド級!」などネット上でよく見るオーバーな形容では表せない、滋味深く家庭的な味でありながら、それだけではない奥行きの深さも同時に感じさせるものがあり、飲食店のダイナミズムと家庭の優しさの双方を併せ持つ。とにかくその辺の料理店とは一線も二線も画しているのだ。 「家に行ってもいいですか?」 何度目かの訪問のとき、酔った勢いで私はそうキムさんに告げていた。こんな狭くるしい厨房ではなく、もっと広々とした厨房環境だったらどんなに自由に腕を振るえるだろうと思ったのだ。
山積みのセルロティでおもてなし
拍子抜けするほどあっさり承諾してくれたキムさんからもらった住所を頼りに訪ねてみると、そこは東京都板橋区にある高島平団地の最上階だった。そこで妹夫婦と共に暮らしていたのだ(取材当時)。 ドアを開けると油と香辛料、ニンニクの入り混じった、何ともうまそうなネパールの匂いが漂ってきた。すでにあらかた調理は済んでいたが、中には来客の到着を待って作ってくれるものもあった。その一つがセルロティだ。台所のかたわらには一晩水に浸した米の入ったボウルが置かれていて、それをミキサーでペーストしたのちきれいな輪になるよう油に注ぎこんで揚げていく。ネパールでは朝食の定番であると同時に、客人を招く際のハレの軽食にもなる。 そんな軽食からはじまり、店とは一味違う山羊肉のジョル(カレー)、コド(シコクビエ)のディロ(餅状に練ったもの)まで用意してくれていた。しかしこれらはすべてある種の前菜で、メインはあくまでも米飯を主体としたダルバートになるのである。ただ前菜の量がすごすぎて、せっかくのダルバートにたどり着くころにはすでに一分のスキもないほど胃が満たされていた。ネパール人宅で食事を頂く際の、ペース配分の重要性を改めて痛感する。 こんな心づくしの料理の数々を、キムさんはどのようにして習得したのだろう。満腹で心地よい眠気に襲われながら、その腕のルーツを教えてもらった。
シングルマザーのキムさん 人生が投影されたひと皿
ネパール第二の街ポカラから約25キロ離れたタナフン郡の小さな村がキムさんのふるさとである。代々軍人の家系で、父も祖父もインド軍に所属していた。このようにインド軍内に勤務しているネパール人は現在も多い。このため幼少期の数年間、キムさんは父の勤務地のあったインド西部のラージャスターン州で過ごした。ネパール人ながら、キムさんがインドの公用語であるヒンディー語が堪能なのはそのためである。 ネパールへと戻り、やがてポカラ郊外にあるカレッジへと進学したキムさんは、そこで出会った一人の男性と付き合うようになる。タクリ族という、グルン族のキムさんとは異なる民族の出身だった。やがて周囲の反対を押し切って二人は結婚、一人の女の子を授かる。ただ若すぎた二人はすれ違いも多く、ほどなくして別居してしまう。 「反対を押し切って結婚した以上、なかなか実家には戻れなくてね。ほとぼりが冷めてようやく戻れたのは、娘が2歳半になった頃だね」 こうして実家に戻ったキムさんは、まず自営で化粧品店をはじめた。ただ売り上げが伸びず3年で畳んでしまう。次いで働きに出たのがニュー・ムスタンという名前の大衆食堂だった。 「どこの街にもあるような、モモやチョウメン(焼きそば)、ゆで卵にチャナー豆の煮ものといった軽食を置いた店だよ。そこで6~7年働いたね」 現在のEKGに至る料理の腕前は、そんなネパール時代に食堂の厨房で、額に汗して働きながら身につけていったものである。その後も複数の食堂やホテルで働きながら、シングルマザーとして子育てもこなしていった。 そんな毎日を送っていたキムさんに日本行きの話が舞い込む。七人きょうだいのうち姉が福島県で飲食店をはじめたのだ。そこを手伝わないか、という誘いだった。 こうして2023年10月、キムさんは初来日した。福島県内の姉夫婦のところに身を寄せ、彼らの経営するインド・ネパール料理店で働きはじめたのだ。だが長くは続かなかった。 「福島はとんでもないぐらいに寒くてね。冬にはネパールで見たことのないような雪が降るし。だから妹夫婦のいる東京に行こうと思ってね」 翌年、妹夫婦を頼って上京。高島平団地に身を寄せながら、伝手(つて)をたどって新大久保の店で働きはじめる。それがEKGの前身であるチヤガルである。 キムさんが働きはじめると、その腕の確かさが一部の好事家(こうずか)の間で静かな話題を呼ぶようになる。連日行列が出来るほどではなかったが、途切れることなく客はやってきた。日本人だけでなく、場所柄ネパール人の学生客も多かった。途中、店のオーナーが変更するというちょっとしたハプニングがあったが(オーナー変更にともない店名もチヤガルからEKGに変更した)、キムさんにとって順調で穏やかな日々が続いた。 仕事が安定したキムさんは、来日後ずっと気がかりだった、親戚に預けっぱなしにしていた娘の招聘(しょうへい)に動き出す。当時娘は義務教育課程の14歳。板橋区内の中学校に編入する必要があったが、日本語の読み書きのおぼつかないキムさんはどの中学に編入させていいのかすらわからない。そんな手続きをサポートしてくれたのが、同じ板橋区で長年にわたってインド・ネパール料理店を経営し、キムさん同様シングルマザーとして子育て経験もある日本人の齋藤さんだった。かつてネパール人男性と結婚していた齋藤さんはネパール語が堪能で、相談通訳者として日本語の不自由なネパール人を行政・教育・医療などの専門家につなぐ活動に携わっている。 齋藤さんのサポートによって中学校への編入手続きも終え、母娘は安心して東京で生活できるようになった。後から来た娘の日本語はメキメキと上達し、今やキムさんの日本語を手直しするまでになっている。 われわれ好事家たちを唸らせるおいしいカナセットは、そんなキムさんの人生が投影されたひと皿なのである。 ■著者プロフィール 小林真樹 インド食器輸入業 インド食器・調理器具の輸入販売業を主体とする有限会社アジアハンター代表。1990年頃からインド渡航を開始し、その後も毎年長期滞在。現在は商売を通じて国内のインド料理店と深く関わっている。最大の関心事はインド亜大陸の食文化。著書に『日本の中のインド亜大陸食紀行』『日本のインド・ネパール料理店』(阿佐ヶ谷書院)『食べ歩くインド』(旅行人)。最新刊は『インドの台所』(作品社)。
朝日新聞社

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