Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/f5b22ca70d5aae547a7fc341ee00f2287d28e3cf
配信、ヤフーニュースより
メディアが多様化し、フェィクニュースなどがはびこる現代。情報とどう付き合っていくのが適切なのでしょうか。ジャーナリストとして活躍してきた池上彰さんは、「世界を正しく見る方法」を身につけ、メディアリテラシーを高めることが大切だと訴えます。 愛知学院大学での人気講義「ジャーナリズム論」を書籍化した3月発売の書籍『何のために伝えるのか? 情報の正しい伝え方・受け取り方』から、抜粋・再構成して紹介します。(前回の記事はこちら)
■戦争ジャーナリストと戦場ジャーナリスト 今日は、戦場ジャーナリズムについて話します。「戦争」ジャーナリズムという言い方もあるんですが、微妙に違うんですね。 「戦争ジャーナリスト」というのは、まさに戦争や紛争の最中に、真っただ中にそこへ入っていって戦争をしている人たちの様子を取材する。「戦場ジャーナリスト」というと、もう少し広くなるんですね。つまり本当に戦争をしている真っ最中に行くという人もいれば、戦争が終わったがれきの中、あるいは死体が散乱しているところへ行って、戦争の悲惨さを伝える。
戦場カメラマンとして渡部陽一さんがよく、カメラベストを着てテレビに出ていたでしょう。彼は自分のことを「戦争カメラマンではない」と言っていました。つまり、戦争をしているところへ行くのではない。戦争が終わったあと現地へ行って、戦争の悲惨さを伝えるために写真を撮る、それが私の仕事だと。 私もフリーランスになったあと、さまざまな紛争地帯を取材しています。 2009年にはグルジアへ取材に行きました。いまは「ジョージア」という呼び方になっています。グルジアというのはかつてのソ連を構成していた15の共和国の1つだったわけですね。
グルジアというのはロシア語読みです。だけどソ連の崩壊に伴い、グルジアは独立国になり、ロシアと急激に関係が悪化するんです。ロシアのことが嫌いなグルジアとしては、ロシア語読みではなく、英語読みで「ジョージア」と呼んでくれと要求したために、日本としてもジョージアと呼ぶように法律を変えたんです。外国の国の呼び方、その国を何と呼ぶかって実は全部、法律で決まっているからです。 一方、「ローマ教皇」も以前は「ローマ法王」と呼んでいたのに、呼び方が変わったでしょう。2019年、ローマ教皇が日本に来るときに、ローマ法王という呼び方は止めてくれ、ローマ教皇に変えてくれと向こうから要望があって変えたのです。たとえば、外務省のウェブサイトを見ると、2013年の「わかる‼ 国際情勢」では、「法王」を使っています。それを変えたのですね。
法王の「法」というのは仏法の法だよね。仏教のトップの人のことを法王と呼ぶんです。仏教的な呼び方なんですね。だからたとえばチベットのダライ・ラマ14世のことは、「ダライ・ラマ法王」といいます。
バチカンのローマ教皇側は、信者に教える、教という文字こそがふさわしいと言っていました。そこで教皇が日本に来ることをきっかけにローマ教皇と呼ぶようになりました。日本のマスコミもそれに従ったというわけです。 ■ジョージアとロシアの戦争のその後
話がそれました。なぜ私が2009年にジョージアへ行ったのか。 2008年、ジョージアとロシアが戦争になりました。ジョージアには、「南オセチア」という自治州があるんですね。そこには、「ジョージアから独立してロシアに編入したい」という人たちがいるんです。でもジョージアは独立を認めない。一方ロシアは、南オセチアを受け入れようと、ここにロシア軍を駐留させるんです。 2008年8月8日、北京オリンピックの開会式、このときウラジーミル・プーチン首相は北京オリンピックの開会式に出席していました。プーチンは当時、大統領の座を自分の忠実な部下のドミートリー・メドヴェージェフに譲り、自分は首相の座にいました。大統領の任期は連続2期までだったので、任期満了後、いったん大統領の座を降りていたのです。その後、再び大統領に就任するのですが。
その開会式の真っ最中、ジョージアは南オセチアに軍隊を侵攻させたんです。当時のジョージアの大統領は、オリンピックという平和の祭典の最中に軍を動かせば、ロシアは戦争をするわけにはいかないだろう、こちらを攻撃できないだろう。だから絶好のチャンスと考えたわけです。 ところがプーチン首相は直ちにモスクワにとって返し、ジョージアを攻撃し、南オセチアの大半を占領しました。南オセチアには、まだロシア軍が駐留を続けています。
それからちょうど1年後、私はその最前線がどうなっているかを確かめたいと、カメラ1台を持って、現地へ行ったというわけです。ロシア軍がジョージア側に銃を向けている、その最前線の様子をカメラに収めたかったんですね。 現地に行くと、装甲車がありました。そこに「POLICE」と書いてあるんです。どうみても装甲車で、軍事用の装備をしているのに警察だというわけです。 なるほどと思いました。つまりジョージアは、「南オセチアはあくまでジョージアの一部」だという建前です。ということは、あくまで国内の治安問題で、治安を維持するのは警察の仕事。軍隊を配備すると、南オセチア側はジョージアの領土ではないことを認めてしまうことになる。しかし向こうはロシア軍がいるから、警察とロシア軍とでは勝負にならない。だから警察といいながら、実際は軍隊の装備をして、装甲車を「POLICE」と塗り替えているんだってことがわかったんです。この文字だけ真新しかったんです。
こういうのって、やっぱり現地に行かないとわからないよね。日本国内にいるだけではわからないことが、たくさんあるということです。 このとき現地に行って、ジョージア側の「POLICE」の人たちに「ちょっと最前線の様子を写真に撮りたいんだけど」とお願いしたんです。そうしたら、アジアから来たわけのわからない男の言うことを認めるかどうか数人で議論していて、そのうちに突然ポンと背中を押されて「オウン・ユア・リスク」。つまり「お前の責任でやれ」と言われました。
ジャーナリズムの仕事って、こういうことなんですよね。現地で何が起きているか、それを人々に伝えるという仕事がある一方で、そこにはリスクがつきものです。 ■サラエボの「地雷原」 そのころ、私は『週刊ポスト』に毎週、国際情勢について連載するという仕事があったものですから、そこに掲載するための写真を撮るために、カメラを持ってあちこち1人で取材に行っていたのです。 ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボへも行きました。東西冷戦が終わったあと、旧ユーゴスラビアはバラバラになっていくわけだよね。その中でボスニア・ヘルツェゴビナは3つの民族による内戦になってしまった。とりわけサラエボというところは、セルビア人武装勢力に包囲されて、その中で孤立したクロアチア人、あるいはイスラム教徒(ボシュニャク人)たちが銃撃によって次々殺されていくという現実があったんです。
次々に殺されるからお墓が足りない。サラエボはかつて冬季オリンピックが開催された都市です。そのオリンピック競技場の駐車場が、見渡す限りお墓になっている。取材に行ったときには戦争は終わっていましたが、周辺にはまだ大量の地雷が埋められていて、私はタクシーをチャーターし、地雷原へ行ってほしいと頼みました。 一生懸命に「MINE(マイン・地雷)」と繰り返しても全然英語が通じず、仕方がないから「こうやって、踏むと爆発するんだ」と絵を描いて見せたら、「ああ、ミネ」と言うではありませんか。「MINE」を「ミネ」と発音するんですね。
タクシーを降りて舗装してあるところからすぐ脇の土がある場所に足を踏み入れようとした瞬間、タクシーの運転手が血相を変えて「アスファルトからは出るな」と叫びました。 アスファルトなら地雷は埋まっていないが、土だったらどこに地雷があるかわからないということでした。思わず足がすくみました。それ以降、日本に帰ってきてもしばらく土の上を歩くことができないような状態になりました。 ああ、戦争ってこういうことなんだ、と。現地で暮らす人たちの気持ちが少し理解できた気がしました。
■イラクの「グリーン・ゾーン」へ 2011年には、イラクを取材しました。イラクは2003年にアメリカの攻撃を受けてフセイン政権が倒れた後、スンニ派とシーア派による内戦状態に陥ります。 アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領(子)はフセインさえ倒せば、イラクは民主化すると思っていた。アメリカと戦争をした日本だってドイツだって、独裁者を倒せば民主化できたじゃないかというわけです。 しかし、ドイツや日本は戦前から選挙で自分たちのリーダーを選ぶことを経験していました。でもイラクは残念ながらそういう民主主義の経験というのは一切なかったんですね。王様か独裁者に従ったことしかない歴史だった。
大混乱の中で、アメリカ軍は自分たちを守るために、イラクの首都バグダッドの中に「グリーン・ゾーン」と呼ばれる厳重な警備が敷かれた米軍管轄区域をつくりました。 私はその中に入りました。ちょうど、戦後のイラク復興のためにJICA(国際協力機構)のイラク事務所がバグダッドに開設された、その直後でした。JICAに協力をいただいて、バグダッドへ入ったんです。 当時のバグダッドは極めて危険で、グリーン・ゾーンの外側、チグリス川をはさんだ反対側にシーア派の過激派が潜んでいて、毎日のようにロケット弾が撃ち込まれていました。毎晩、夜になると空からロケット弾が降ってくる、そんなところにJICAの事務所はできたんです。
日本のメディアは「そんな危険なところにウチの社員を送るわけにはいかない」というので、どこのテレビ局も新聞社も、バグダッドに社員を派遣していませんでした。私はフリーランスだからそこへ入れたんです。 夜になると仮設の宿舎で寝泊まりしますが、チグリス川の向こう側からロケット弾が飛んでくる。近くに着弾したときに爆風が入ってこないように窓の外に土嚢を積んであります。ただし「直撃を受けたら諦めてください」と言われました。
ロケット弾が発射されると、グリーン・ゾーンの上空に浮かんでいる観測気球が、その炎を感知して空襲警報が鳴ります。「空襲警報が鳴ったら、防弾チョッキを着てヘルメットをかぶってください」と言われました。 フリーランスのカメラマンと一緒に行ったのですが、どうやら夜中にロケット弾が発射されて、近くに着弾したらしく、朝起きて会うと、「空襲警報が鳴ってロケット弾が落ちましたね」と言われました。初めて知りました。私は熟睡していてまったく気づかなかったんです。
このロケット弾というのは、アメリカ大使館を狙って発射されるのですが、性能がいいわけじゃないので、どこに落ちてくるかわからない。アメリカ大使館の手前に日本大使館があるんです。ロケット弾を発射すると、アメリカ大使館に届く前に日本大使館に落ちるかもしれないというわけですね。だから空襲警報が鳴るたびに、日本大使館の大使館員たちは地下の防空壕に避難するということを毎日やっていました。日本大使館を訪問して、そういうことも知ることができました。
■日本大使館を警備していた「グルカ兵」 まさに現場へ行くことによって、わかることがたくさんあるということです。さらに言うと、日本大使館を警備していたのはグルカ兵だったんですね。 グルカ兵って聞いたことがありますか? ネパールの精鋭の軍隊です。ネパールという国は、兵隊を輸出しているんだよね。 フィリピンというと、女性の家事労働者を送り出していることで有名でしょう。たとえば香港のお金持ちの家で働いているのはフィリピンからの出稼ぎの女性たち。香港のほかにもサウジアラビアとか、UAEとか、カタールでも家事労働をしています。彼女たちが働いて本国へ送金する。貧しいフィリピンは、そういう海外からの送金によって支えられています。
同じように、ネパールは、若い男たちを兵隊として世界各地に派遣しているんです。とくに海外に展開するイギリス軍の戦闘部隊には実はグルカ兵がいるんです。 それでいうと、フランス軍は、たとえばアフリカのマリなどにイスラム過激派を抑え込むために派遣されていますが、外国人部隊がいるんです。給料を払って真っ先に外国人部隊を危険なところへ送る、そういう構造になっているわけ。 グルカ兵というのは勇猛果敢に戦うというので、実はイラクの日本大使館はグルカ兵に警備をしてもらっていたということです。2011年のことです。そのときは、「日本に帰っても言わないでください」と口止めされたんですが、もう10年経って事情がすっかり変わりましたから、時効でしょう。
■後藤健二さんから教わったこと 独裁者ムアンマル・アル=カダフィが殺された直後のリビアにも入りました。2011年です。このときは、後藤健二さんといっしょでした。彼は、シリアでイスラム過激派組織・自称「イスラム国」(IS)の人質になり、2015年に殺害されてしまったフリーランスのジャーナリストです。 実は私は中東に取材に行くとき、後藤健二さんとご一緒させてもらったことが何回かありました。 ※後藤健二 1967~2015年。宮城県仙台市出身のフリーランスのジャーナリスト。紛争地帯の取材を続ける中、シリアで拘束され、イスラム過激派組織・自称「イスラム国」(IS)に殺害された。
リビアでは、後藤さんと一緒のホテルに泊まったんですね。外国人専用のホテルでした。その後、日本へ帰ってきて2週間後にリビアの外国人専用ホテルが過激派に襲撃され、宿泊していた外国人たちが殺されたとニュースになりました。まさに、私が後藤さんと泊まったホテルでした。 リビアで後藤さんから教わったことに「15分ルール」があります。リビアにはテレビ東京の番組取材で行ったんですが、テレ東のクルーといっしょに車で移動しながら、戦闘が激しかったところで私が降りてリポートをするわけです。そのときに後藤さんから「15分以上いたら危険です。15分以内に必ずそこから立ち去ってください」と言われました。
これ、どういうことか。リビアの中のあちこちにイスラム過激派と連絡を取り合うような仲間がいるわけですね。外国人がリポートを始めれば、「あそこに外国人がいるぞ」というので、すぐにイスラム過激派に連絡をする。すると「捕まえてやろう」と、過激派が銃を持って車で駆けつけてくる。それには15分はかかる。だから手早くやって15分以内に逃げてくださいというわけです。そうすれば身の危険をある程度防ぐことができるんだということを教えてくれました。
その後藤さんが、殺されてしまった。本当に衝撃でした。これをきっかけに、そもそも戦争を取材するってどういうことなんだろうか。あるいは戦場を取材することに、どういう意味があるんだろうかと考えました。 後藤さんは宮城県仙台出身です。大学を出た後、物流会社に勤めるんですが、すぐに辞めて、さまざまな紛争地帯で被害を受けている子どもたちの様子を伝えたいとフリーのジャーナリストになりました。後藤さんは、本当に子どもが大好きなんですね。ご自身にも3人のお子さんがいるんですけど、子煩悩で、とくに悲惨な被災地に行くと、まず子どもたちに焦点をあてて様子を撮影していました。2006年には紛争地帯の子どもたちを取材した『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白』(汐文社)で第53回産経児童出版文化賞フジテレビ賞を受賞しています。
アフリカのリベリアというところはダイヤモンドの産地です。そこでダイヤモンドが採れる場所を政府系と反政府系、どちらがおさえるかということで、激しい内戦が続いていました。ダイヤモンドの産地を取ったほうが、そのダイヤモンドを海外に売ることができて莫大な資金を得られる。結果的にこのリベリアの子どもたちが、紛争に巻き込まれて悲惨な状態になっているということを、写真付きで本にしたということです。 「紛争ダイヤモンド」って言葉があります。これ、レオナルド・ディカプリオが主演で『ブラッド・ダイヤモンド』というアメリカ映画にもなっています。
ダイヤモンドによって戦争が起きるんだということで、ダイヤモンドの取引業界は必ず産地がはっきりしたものでないと販売ができない仕組みにしました。これによってリベリアでの内戦が収まっていくことになります。 ■「自己責任論」についてどう考えるべきか 後藤さんはアラブの春のあとのシリアへも行っています。シリアはバッシャール・ハーフィズ・アル=アサド政権と、反アサド政権の間で内戦状態になっていく。後藤さんは反政府勢力の側に取材に入るわけだよね。反政府勢力側にいると、アサド政権によって容赦ない空爆を受けたりする。それによって子どもたちや女性たちが犠牲になる。
彼はしばしばそこに入って自らカメラを回し、あるいは自分でリポートしながら、それを日本のテレビ局に伝える。シリア内戦のような状態になると、あまりに危険だからそれぞれの新聞社やテレビ局は社員を派遣することができず、フリーランスを使うんです。 日本の外務省が海外渡航での「危険情報」というのを出すんだよね。その国の治安情勢をはじめとした危険度を4段階に色分けして表示しています。一番危険な「退避勧告」の赤から、4番目の「十分注意」の黄色まで。赤いところに日本のテレビ局や新聞社が行くと、外務省が危険だと言っているのになぜそんなところへ行くんだって、国内で激しくバッシングされる。
結果的に日本の新聞社やテレビ局の正社員は戦場へは行けない。だけど、戦場がどうなっているかということをやっぱり知りたい、伝えたいとなると、フリーランスに任せるということになるんですね。 ※アラブの春 2010年にチュニジアで始まったジャスミン革命をきっかけに、ソーシャルメディアや衛星放送アルジャジーラなどで瞬く間にアラブ世界に広がった反政府・民主化運動の総称。 そうするとまたこれが国内で批判される。「新聞社やテレビ局の連中っていうのは危険なところには行かず、立場の弱いフリーランスに行かせるのか」と。行っても行かなくても批判されるんだよね。これ本当にジレンマだよね。
となるとどうするのか。「行ってください」とは言えない。だけどフリーランスが自己責任というかたちで取材をしてきます。たとえば後藤さんが行って、子どもたちの悲惨な状況をリポートする。そうするとそれを、当時はテレビ朝日の『報道ステーション』が放送するというわけです。 ■イギリスと日本のジャーナリストの行動の違い その点、たとえばイギリスのBBCは公共放送ですが、戦争が始まると、真っ先に戦地に入ります。正社員である記者、カメラマンが現地からリポートします。シリアで内戦が始まった直後、私がBBCを見ていたら、もういい歳のおじいさんですよ。本当の戦争報道のベテランなんですね、白髪の男性が、ヘルメットをかぶって現地からリポートしていました。
すぐ後ろでシリア軍の爆撃によって大きな煙が上がり、慌ててリポートの最中に避難をするなんてことが起きていました。何かあったらとにかく現地へ行って取材をするのが当たり前なのです。 BBCが戦地へ行ってリポートしても、「イギリス政府が行かないでくれと言っているのに、なぜ行ったのか」というバッシングは起きません。 つまりジャーナリストの行動について、たとえばイギリスと日本とでは、非常に大きな違いがあるんですね。国内の世論に差があります。
池上 彰 :ジャーナリスト
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