2020年6月3日水曜日

大迷走する「9月入学」議論、幼児教育政策から見た「3つの悪影響」

Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/47b9efbdd8ef82f1b24a657298bc2ac9634a0c9c

配信、ヤフーニュースより

現代ビジネス

---------- 本稿を書き上げた先週時点では入学半年後ろ倒し・小学校0年生導入という議論しかまだ出ていなかった。そのため、入学前倒し案については触れていない。たしかに入学試験を考えると9月入学も検討の価値がある方策だが、教育投資の社会経済的な価値を考えると幼児教育の方が高校・大学入試とは比べ物にならないぐらい大きい。新型コロナの第二波・第三波に備えて9月入学案を検討しておくのは重要ではあるが、筆者は現時点での9月入学導入は時期尚早だと考えている。優先されるべき教育政策という考え方についてはこちらの記事をご参照ください(「日本には『教育無償化』が本当に必要なのか? 徹底図解で考える)。 ---------- 【写真】「拙速な9月入学」が日本教育を大混乱に陥れるこれだけの理由

迷走する「9月入学」議論

 9月入学の議論が迷走している。  前回の記事(「コロナ危機、アメリカ『3兆円規模の教育政策』に不満が噴出するワケ」)で、米国の教育セクターでは新型コロナの拡大に際して火事場泥棒が発生しており、日本はこれを反面教師にするべきだと書いた。しかし、この議論を見ていると、米国と同程度には火事場泥棒が発生してしまっているようで残念である。  火事場ではないものとして、教育経済学者の中室牧子氏の議論や、当NGO代表である荒木啓史が加わっている教育社会学者の苅谷剛彦氏のグループの議論が挙げられる。  しかし、火事場泥棒な議論はなおのこと、研究者からの議論でも十分な注意を受けていないのが、幼児教育から見た9月入学のインパクトである。本稿では幼児教育政策もカバーしている私が、9月入学の議論を幼児教育の観点から議論してみたい。  (本稿での議論は、当NGOの元インターンであり、コロンビア大学で修士号を取得し現在ユニセフ・ネパール事務所で幼児教育政策を専門として勤務している北村健二の記事の内容を踏まえるとより理解が深まるので、一読をお勧めしたい。北村は、幼児教育政策は注目を集めづらいこととその理由を記述しているが、9月入学の議論について正にそうなっている点は興味深い)

「反実仮想」を理解する

 9月入学の議論に入る前に、議論が迷走している一つの原因に言及したい。それは、「反実仮想」である。  教育政策における反実仮想とは、「Aという集団に、Bをしていなければ、Cとなっていた」というものである。この反実仮想のCと実際にBを実施した時のCの差異が政策の効果となる。  教育政策においてランダム化比較対照試験(RCT)がブームなのは、この反実仮想を理想的な形で得られるためにBの効果が理解できるためである。そして、この反実仮想の話は他国の事例を参照するときにも当てはまる。  私が専門とする途上国の教育政策で、最も効率的な介入は虫下し薬の配布である、という有名な話がある。  これはRCTを用いて実証された研究であるが、虫下し薬配布の反実仮想は、「ケニアの子供たちに、虫下し薬を配布していなければ、お腹の虫の影響による体調不良で学校に来られなかったり勉強に集中できなかったりする」となる。  この介入における反実仮想を理解しておけば、衛生環境が良くないマラウイやジンバブエでも虫下し薬の配布は最も効率的な教育介入になるだろうということが分かる(反実仮想が同じ)。  しかし、衛生環境の良い日本では、お腹の虫の影響による体調不良で学校に来られなかったり勉強に集中できなかったりする子供が大半だとは考えられず、虫下し薬の配布が最も効率的な教育介入とはならないであろうことが分かる(反実仮想が全く異なる)。  途上国の教育政策を専門とする私が、アメリカで教育政策を専攻している理由もこれである。途上国の教育政策を立案する上で参考にされる教育経済学の研究はほとんどが米国のものである。  途上国支援の政策会議の席で、こういうエビデンスがあるとエコノミストがゴリ押ししてくることがあるが、そのエビデンスの反実仮想の状況(米国)は、途上国にも当てはまるのか大いに疑問が残るケースが大半であった。  しかし、私自身が米国の教育状況に不慣れで反実仮想に関して確かな議論ができなかったので、米国の教育政策を専攻することにした。  日本の9月入学の議論についても同様である。  (1)9月入学の反実仮想は何なのか? (2)9月入学の議論で、学校閉鎖や入学年齢の後ろ倒しのインパクトで他国の事例を引く際に、その他国での反実仮想は日本にも当てはまるのか? ――という二つの反実仮想を踏まえた議論がされる必要がある。それが踏まえられていない議論の多くはあまり価値がない。

幼児教育政策と9月入学の問題

 9月入学の議論が錯綜しすぎて、海の向こうからは何を議論しているのか全体像がはっきりとは見えない。  しかし、報道(FNNプライムオンライン、日本経済新聞電子版)を見ると、いくつも出ている9月入学案の中で、幼児教育政策の観点からは以下の点が字数的にカバーし得る主要なイシューとなると考えられる。  (1)小学0年生問題、(2)学年内月齢の幅問題、(3)幼稚園への入園の半年遅れ問題、である。

幼児教育の学校教育化

 まず、小学0年生問題についてである。これは反実仮想を踏まえるまでもなく問題のある選択肢であることが分かる。  北村が記事で指摘しているように、幼児教育と学校教育は根本的に別物であり、幼児教育においては発達段階に応じた教育・ケアを提供することが重要になり、「遊び」を通じた学びはその象徴的な事例の一つである。OECDやUNESCOも指摘しているように、幼児教育の学校教育化は、是が非でも避けなければならない。  もし、小学0年生プランが、年中の子供たちの一部を、年長を飛ばして小学0年生とする方向で行くのであれば、反実仮想では幼稚園・保育園で発達段階に応じた教育・ケアを受けられていた子供たちが、学校教育に放り出されるわけである。これは到底許容できるものではない。  日本の幼児教育は、子供の人数が多過ぎる・低賃金過ぎるという二重の課題を抱えているが(拙稿「幼児教育無償化で十分か? ―― 就学前教育の重要性と日本の課題」)、それでも諸外国比でこの遊びを通じた学びが提供できており、低コストで幼児教育の学校化を抑えられている世界に誇れるものである。  確かに日本はここ10数年で持っていた強みを手放すような教育政策をいくつか打ち出してしまっているが、小学0年生プランの運用の仕方によっては、その中でも愚策の極みとなると考えられる。

相対年齢効果

 さらに、9月入学は学年内の月齢の幅を拡大させる。これも、幼児教育にマイナスの影響を及ぼすことが考えられる。  なぜなら、同じ学年内の年齢差(月齢差)は、年をとればとるほど小さくなりほとんど誤差のようなものとなるが、幼い間は無視できないものとなる。  このため、この月齢の幅の拡大を許容すると、現状ただでさえ諸外国比で低賃金で多くの子供にケア・教育を提供している保育士や幼稚園教員の負担増となる。  例えば、私は3月生まれであるが、生まれてから422カ月が経過している。同じ学年の4月生まれは433カ月が経過しているが、この差は、433/422=1.026と約2.6%の差しかない。これに対し、年長に相当する年齢だと72/60=1.20と20%もの差になる。  9月入学に1年で移行する案では、一学年の中に17カ月分の子供を迎え入れる学年が出てくる。確かに、大人の感覚的には5カ月の差ぐらいとなるのだろうが、年長相当の子供にとっては全くそうではないことは、上の計算から理解してもらえるだろう。  実際に、反実仮想である現行の1学年の中で12カ月の差があるだけでも数々の問題が発生している。  計算上からも、3月生まれと4月生まれの差は年齢と共に縮小するはずであるが、日本のデータが用いられた研究でも、学歴や賃金に差が残っており、自殺率が高く、プロ野球やサッカー選手が少なかったりする、という現象を生み出している。  諸外国のこの分野の研究を参照しても、幼児教育段階で1学年の中で扱う子供の月齢の幅が増加すると、この差が特に貧困層の男子を中心に悪化することが予想される。

幼稚園入園後ろ倒し~貧困層の論点

 現在の議論は、幼稚園が半年後ろ倒しになることよりも、小学校が半年後ろ倒しになることに焦点が当たっているが、この議論は三重の誤りを含んでいる。  まず、報道の中で参照されているノルウェーの論文であるが、報道では小学校の開始を遅らせると所得に負の影響が出る根拠として扱われているが、この論文からは個人が入学を遅らせた場合の影響は論じることができるが、学年全体として入学を遅らせた場合の影響を論じることは難しい。  次に、このノルウェー論文もそうであるし、アメリカの論文でも指摘されているが、小学校の入学年齢を後ろ倒しにすることで、子供たちのメンタルヘルスが大きく改善することが指摘されている。  世界銀行のように経済主眼で考えれば、後ろ倒しは放棄所得が大きく実行すべきではないとなるが、ユニセフのように子供の人権主眼で考えれば、子供の福祉を犠牲にしてまで100万円程度の遺失生涯所得を気にしなければならないのか? とも考えられ、そう簡単に結論が出せる問題ではない。  そして最後に、小学校入学時期の影響に関する論文の多くは、まだ幼児教育が拡充されていない時期のデータを用いたものが大半で、幼児教育就学率が100%に近く、かつ幼稚園入園の時期が連動して動く今の日本の議論には適していない。幼児教育を受け始める時期の変動に基づいてこの点は議論がなされる必要がある。  北村の記事の中でも、ヘックマンの幼児教育研究の時代と現代では、幼児教育を受けられていないという反実仮想の状況が大きく異なっているため、幼児教育の効果の大きさが異なってくる点が指摘されている。この「入園が半年後ろ倒しになることにより、この半年間の間に何が起るのか?」の反実仮想を理解することが重要となる。  ここで重要になるのは、貧困層と富裕層の違いである。  ヘックマンも強調している点は、米国では、黒人の子供の3分の2が一人親家庭で育ち、その大半が親の教育水準も所得水準も低く、育児の貧困が蔓延していて、これに対処する必要があるという点である(私の議論を読むと、ヘックマンを批判しているように映るかもしれないが、私が批判しているのはヘックマンの研究を文脈の違いを無視して御守り的に使用している教育関係者である)。  つまり、育児の貧困に晒されている貧困層の子どもにとっては、幼児教育の始まりが後ろ倒しになると、そうでなかった反実仮想と比べて、それだけ育児の貧困に晒される期間が長くなり、負の影響が出ることが考えられる。  実際に、貧困層向けの幼児教育プログラムの効果を分析した、当時スタンフォード大学の教授だったグループの研究(「Child Care in Poor Communities: Early Learning Effects of Type, Quality, and Stability」「How much is too much? The influence of preschool centers on children's social and cognitive development」)を参照すると、貧困層の子どもに限って言えば、より早い年齢から幼児教育をスタートできると効果が大きいことが理解できる。  確かに、早くから幼児教育を始めても効果が持続しないという結果も報告されているが、その主なメカニズムは、早期スタートの幼児教育の効果が消滅するというよりも、比較的裕福で普通通りに幼児教育を始めた子供達に追いつかれるというものである(「Starting Early: The Benefits of Attending Early Childhood Education Programs at Age 3」)。  どれだけ頑張っても幼い子供が微積分を解いたり、ベンチプレスで100キロ上げたりできないように、成長には上限があることを考えれば、早期スタートの幼児教育の効果が追い付かれるのは自然なことであり、悲観することでもないだろう。  このように、貧困層の子どもにとって幼児教育の始まりが遅くなるのは負の影響があるが、米国の結果は日本にとって妥当だと言えるだろうか?   私は、米国ほどには貧困層にとって幼児教育が遅くなる負の効果はないものの、やはり日本でもこの影響はあると考える。  日本は子供の貧困が、米国ほどではないものの先進国の中ではこれが蔓延している国である(拙稿「日本における子供の貧困を人的資本投資、共同親権の側面から考察する」)。加えて、深刻な一人親家庭の貧困問題を抱えているが、教育水準が低い世帯にこれが集中しており、米国と似た構図が存在している(拙稿「“ひとり親世帯”の貧困緩和策――OECD諸国との比較から特徴を捉える」)。  これを考えると、幼稚園入園の半年後ろ倒しは、育児の貧困に直面する子供たちに負の影響がもたらされる危険があり、よい施策だとは考えられない。

幼稚園入園後ろ倒し~富裕層の論点

 貧困層にとって幼児教育が利用可能な状況の反実仮想は育児の貧困である可能性が高いが、富裕層はどうだろうか?   おそらく二つのパターンが存在していて、一つは専業主婦/夫がいる場合である。このとき、日米ともに共通して、ケア・教育のためにリソース(時間・お金)を費やしているケースが、もちろん全てではないが、メジャーなケースだと考えられる。  もう一つは、一人親ないしは共働きの場合である。しかし、この場合でも、非認可の保育園やベビーシッターを使い、子供たちにケア・教育を届けられているケースが大半だと考えられる。  実際に米国の研究を見てみても、公的な幼児教育の拡大は、富裕層の子供に対して特にインパクトがあるわけではない。  ただ、それまで子供たちが受けていたインフォーマルなケア・教育が、公的な幼児教育に置き換わるだけで、富裕層の家計が助かるだけ、というものであり、同様の結果は、イタリアなどでも見られている。  日本においても、保育所の拡充は富裕層よりも貧困層の子どもの間で効果が高いことが明らかとなっている(「How does early childcare enrollment affect children, parents, and their interactions?」)。  これらのことを考えると、日本で幼稚園の入園が半年後ろ倒しになることそのものからは、富裕層の子供にとっては特筆するほどの悪影響はないのではないかと考えられる。  しかし、間接的には二つの影響が考えられる。  9月入学に移行するということは、一時的にせよ現在のキャパシティーを超える数の子供を幼稚園・保育園が受け入れて混雑した教室を作り出すか(もちろん、一時的な施設の増築・教員の採用で対処することもあり得るが、時間や予算措置を考えると、あまり現実的ではない)、待機児童が発生するかの二択を迫られるからだ。  まず前者についてであるが、教室が混雑するという状況は何を意味するだろうか?   卑近な例を出すと、予備校生は一つの教室に100人以上詰め込まれた授業を1年間受講するために100万円を超える金額も支払うが、幼稚園や保育園でそれが行われたら、たとえ100万円を逆に貰えたとしてもごめん被りたい人が大半だろう。  あまり良い例ではなかったかもしれないが、このように教室の混雑さなどの学習環境要因は、幼い子供ほど劣悪になった場合の影響が大きい。  しかし、これがどの程度のものなのかは不透明な状況である。  幼児教育における学級規模の影響をメタアナリシスした論文によると、やはり学級が混雑すると子供に悪影響が出る可能性が高い。  しかし、米国では学級規模が大きくなると、保護者がその悪影響を相殺するために別の幼児教育活動への支出を増やすし(「Do reductions in class size “crowd out” parental investment in education?」)、Lazearモデルが幼児教育についても当てはまるのであれば、貧困層の子どもが集まる保育園や幼稚園では、学級が子供で混雑すると途端に負の影響が出始めるが、富裕層の集まる保育園では簡単にはビクともしない(Lazearモデルの話はこちら「『35人学級見直し議論』を大人の茶番ですませてはいけない」)。  ただし、富裕層の家庭であっても、待機児童の増加が発生した場合には、家庭として影響がある可能性がある。  それは女性の労働参加である(もちろん、専業主夫か否かの可能性も十分あるが、数として専業主婦の方が圧倒的に多いので、ここでは女性の労働参加のみを考慮する)。  直観的には待機児童問題は、富裕層でも貧困層でも女性の労働参加を阻害するように感じられるが、実際のところ、子供を保育所に預けられるの反実仮想は何であろうか?   貧困層の女性にとっては、家族知人によるインフォーマルケアの利用・ネグレクト・家計の破綻のどれかである可能性が高い。  開発経済学では、労働力は貧困層が持つ唯一の財産という話があるが、恐らくこれは先進国の貧困層の女性にもある程度当てはまり、働かないことには食べていけないということになる。  これに対し、富裕層の女性にとっては、高額のインフォーマルケアを購入する・ネグレクト・夫の稼ぎに頼るという選択肢があり得る。  つまり、反実仮想を考えてみると、貧困層の女性の方が、富裕層の女性よりも、育児から解放されて労働に従事する必要性が高いことが読み取れる。  実際に、日本のデータを使った研究でも、保育所の拡充の女性の労働促進効果は、大卒よりも高卒や短大卒の間で大きいことが明らかにされている。

9月入学は悪影響

 9月入学については様々な方法が議論されているが、幼児教育政策から考えると、基礎教育政策から考えたときよりも、明確に負の影響が子供たちに及ぶことが考えられる。  さらにたちの悪いことに、この悪影響は貧困層の子供と母親に対して強く出ることが考えられる。  現在の9月入学の議論で、これによって将来発生するであろう格差や貧困対策のためのコストが計算に入れられているものはない。  現状ですら9月入学のコストが高いことは報告されているが、これらを計算に入れてもなお9月入学は実施されるべきものなのであろうか?   最後に、新型コロナに際して多くの所で火事場泥棒が見られるので、私も少し火事場泥棒をしてみたい。  9月入学の議論が混迷を極め、貴重な政策リソースが奪われてしまっている理由の一つに、公共政策大学院を見ても教育大学院を見ても日本では教育に対して政策という視点からのアプローチが極めて脆弱な点が挙げられるのではないだろうか。  実際に、日本教育学会から出された提言を見ても、既存の研究への言及が一切なく、内容には同意するのだが、学術団体の提言としてこれはどうなのか? というクオリティであった。  私は米国で教育政策を専攻すると決めたときに、日本の先生方から、もし日本の教育アカデミアに来るつもりがあるなら、小学校・中学校・高校のような教育段階にフォーカスしていく必要があると助言を受けた。  だが、日本に戻るつもりもなかったし、10年以上国際機関の教育政策分野で働いてきたので、いまさら特定の教育段階に焦点を当てても面白くないし、政策という観点から教育を極めたかったので、一顧だにしなかった。  これまでも政策としての教育がボロボロなのを現場の踏ん張りで持ちこたえるというのが日本では繰り返されてきたが、9月入学の議論を眺めると、もはやそれも限界に近付いているのではないだろうか。  次に何かが起こったときのことを考えれば、今こそ教員養成系と非教員養成系の分断を解消する形で、幼児教育政策・基礎教育政策・高等教育政策・国際教育政策のプログラムからなる教育政策学科を設立して、人材育成と知見の蓄積の点から準備を進めておくべきだと、火事場泥棒的に私は提言したい。

畠山 勝太(NPO法人サルタック理事)

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