経済か、安全か──。新型コロナ対策をめぐり、日本を含む先進諸国の間ではそんな論戦も巻き起こっている。しかし、世界にはそんな議論の余地がない貧しい国々が、人々が大勢いる。 ここで向けるべきものは、同情と憐みではない。目を向けるべきことは、その実情だ。 “貧困はコロナよりも命を奪う”そんな話を耳にしたことがあるかもしれない。現実的にそれはどういうことなのか? 「極度の貧困」とは何を意味するのか? 英紙「エコノミスト」の記事をお届けする。
「全土が一斉に惨禍」の非常事態
ジェーン・カバフマは3月末にロックダウン(都市封鎖)が始まって以来、1日に1回しか食事をしていない。ウガンダの大半の企業と同じように彼女の勤め先のホテルも休業となったのだ。仕事に戻れるまで「まだ時間がかかりそうだ」と言う彼女は5ヵ月後に出産を控える。仕事に復帰する前に子供が生まれることになるのかもしれない。 生活水準はガクンと下がったという。以前はお金を払って清潔な飲み水をジェリカンに入れてもらっていたが、最近は清潔ではない無料の井戸水を使う。友人や家族の支えがあるので何とか暮らしていけているという。だが、そんな生活をいつまで続けられるのか。 通常なら貧しい国の住民は経済ショックを切り抜ける対処法をいくつも知っている。家族の誰かが病気になったら、同じ家族の別の誰かが働く時間を増やして減った収入を補う。親戚や隣人が助けの手を差し伸べてくれることもある。不作で村全体が貧しくなってしまったら、大都市や外国へ出稼ぎに行った甥に、仕送りの額を増やしてくれないか頼むこともあるだろう。 これらは開発の専門家が「対処メカニズム」と呼ぶものだが、このメカニズムが機能するのは全土が一斉に惨禍に見舞われることが滅多にないからだ。だが、新型コロナウイルス感染症では、それが起きてしまった。 いまは働く時間を増やして減った収入を補おうとしても、それができない場合が多い。労働力の需要が急落したからだ。客が来ないレストランにウェイターはいらない。休業中のショッピングモールでモップ清掃をする必要はない。車の窓を開けて行商人からフルーツを買う人も少なくなった。
この10年の貧困に対する闘いが水泡に
世界全体が同時に巨大な経済ショックに見舞われているので、新たに貧困に陥った人は、友人や親戚に助けてもらうのも簡単ではない。世界銀行の予測によれば、出稼ぎ労働者が今年、本国に送金する額は20%減るとのことだ。外国に出稼ぎに行ったネパール人男性の仕送りの額は、2020年1月といまをくらべると4分の1に減った。本国に帰らざるをえなくなり、仕送りができなくなった人も多い。 開発途上国では、いまも生活に必要な外出以外は自宅を出られないところが多い。しかし、世界の最貧困層は、在宅でできる仕事をしている人が少ない。仕事がなくなってしまえば、食べるのに困る人も出てくる。世界全体で貧困に苦しむ人の数が減ったことは、この数十年の最大の快挙の一つだった。しかし、その成果がいま新型コロナのせいで水の泡となりかねない状況だ。 世界では極度の貧困(1日の収入が1.90ドル以下)にあえぐ人の数が1990年には20億人(全人口の36%)いたが、2019年には約6億3000万人(8%)に減っていたのである。ところがいまこの数が1998年以降では初めて増加に転じている。それも急速な増加である。 極度の貧困に戻ってしまう人は何百万人になるのだろうか。その人たちはパンデミックが過ぎたら、極度の貧困を抜け出せるのだろうか。それともその影響は長期に及び、場合によっては永続化してしまうのか。こうした大きな問いを考えなければならない。 これらの問いに対する答えを突き止めるのは腹立たしいほど難しい。世界銀行の試算では各国のロックダウンや世界経済の崩壊で極度の貧困に陥る人の数は最低でも4900万人になるとのことだ。これは2017年以降の成果が消えてしまったことを意味する。 ただし、この試算はバラ色すぎて信じがたい。世界銀行の試算は4月時点のデータにもとづいたものであり、その後の数字を見るかぎり、事態はもっと深刻だ。 ゴールドマン・サックスは5月17日、インド経済が年率換算でマイナス40%も落ち込んでいると推計した。キングス・カレッジ・ロンドンのアンディ・サムナーの試算によれば、仮に世界全体で1人当たりの収入が20%減ると(これは実際に数ヵ月に及んで起きる可能性がある)、極度の貧困に陥る人の数が4億2000万人増える可能性もあるという。4億2000万人といえば南米全体の人口とほぼ同じだ。貧困に対する闘いで積み上げてきたこの10年の成果が一気に水泡に帰してしまいかねない状況なのだ。
ロックダウンは貧しい国では“激痛”を伴う…
貧しい国では裕福な国で実施されたロックダウンをそのまま取り入れたところが多い。だが、裕福な国と貧しい国とでは状況が大きく異なる。裕福な国のほうが在宅でできる仕事が多くい。また、ホテルの受付係やウェイターなどの仕事がなくなった労働者は、納税者の支援を受けられる場合が多い。 それとは対照的なのが、3月24日から厳格かつ壮大な規模のロックダウンを実施したインドである。推定1億4000万人が職を失い、突如として窮状に陥ることになった。農村部から都市に出稼ぎに向かった数千万人が突然、収入がなくなり、家賃を支払えなくなったのだ。鉄道も止まったので、鉄道で家に帰ることもできない。結局、数百万人が数百キロメートルを歩き、家族が受け入れてくれる故郷の村まで帰ることになった。 この種のつらい話は、ほかの貧しい国でも聞ける。4月前半、収入が減ったと言うケニアやセネガルの住民は80%を超えた。マンチェスター大学の調査でバングラデシュの60世帯が「家計簿」をつけている。3月以前はどの世帯も、毎月約1000ドル(すべてが収入ではない)が家計に入っていたが、4月にはその額が300ドルほどに下がったという。 中所得国でもロックダウンは激痛をともなうものとなっている。コロンビアではきついロックダウンが実施されたため、労働者階級のバリオ(居住区)で抗議活動が起きた。エルサルバドルの首都サンサルバドル近郊のアルタビスタ地区では住民が白旗を窓に下げて食料が尽きたことを示した。 「それまで収入があった人が、ほとんど一晩で無収入になりました」
とてつもない規模の飢餓の可能性
世界銀行のカロリーナ・サンチェス‐パラモは語る。収入が減れば、食べ物が減ることも多い。国連世界食糧計画(WFP)の予測では、急激な食料不安に直面する人の数が2020年末までに倍増するとのことだ。WFPの事務局長デイヴィッド・ビーズリーは、数ヵ月以内に「聖書に出てきそうな規模の飢饉が同時発生しかねない」ことに懸念を示した。 医療崩壊を引き起こす原因はウイルスだけでない。ロックダウンも医療崩壊をもたらし、コロナ以外の病気の患者が治療を受けにくくしているのだ。ジョンズ・ホプキンス大学の研究チームによると、低・中所得の118ヵ国では医療崩壊と飢饉のせいで、6ヵ月間で子供120万人と妊産婦5万7000人が死亡する可能性があるという。
最貧国では逆効果になりうるロックダウン
国際研究グループ「ストップ結核パートナーシップ」は、3ヵ月のロックダウンとその後の10ヵ月の復旧期間中に生じる診断と治療の混乱のため、インドだけでも結核の死者数が50万人増える可能性があるという。 要は、救う人命より失う人命が多くなってしまうロックダウンもありうるのだということだ。ロンドン大学衛生熱帯医学大学院の報告書によれば、ロックダウンのせいでワクチン接種ができなくなると、アフリカでは、新型コロナ関連の死を1人分回避するたびに、別の死因で140人が死ぬことになるという。 ゆるいロックダウンでも最貧国では逆効果になりうる。マラウィの国家計画委員会と二つのシンクタンクが、同国のロックダウン(学校閉鎖、人の移動の制限、医療アウトリーチ活動の停止など)の費用便益分析を実施した。それによると、このロックダウンを9ヵ月続けると、新型コロナ関連の死者数を1万2000人減らせるとのこと。 しかし、ロックダウンの影響で飢える人が増え、その結果、結核やマラリアを患う人が出てくるので、その分を差し引くと、救える命は1万2000人の半分程度になるとのことだ。また、新型コロナの死者の大半が高齢者であるのに対し、マラリアの死者は幼児が多い。そのため救命年数の合計は2万6000年のマイナスになるという計算になった。 マラウィではロックダウンで120億ドルほど貧しくなるという。国民が働けなくなるだけでない。教育が中断されたせいで、子供が将来、稼ぐ額が減ると予想されているのだ。120億ドルといえば、この国のGDPの約2年分という非常に大きな数字だ。結局、ロックダウンの費用は便益の25倍になるという結論が出た。 もちろん、この種の試算には大きな誤差がつきまとう。しかし、裕福な国で実施したロックダウンを、そのまま貧しい国でやっても無理が出ると考える専門家が多い理由は、この辺にある。 貯金もセーフティネットもない人は働くしかない。ところがロックダウンによって数百万人が働けなくなったのだ。危機の前、フィリピンのダバオ市でトゥクトゥクの運転手をしていたジョナサン・ソルマヨールは言う。 「4人を養っているけれど、唯一の生計手段が止められてしまってね」 「イェール大学イノベーションとスケールの研究イニシアティブ」によると、ネパール西部では男性が賃金と引き換えに働ける時間が約75%減少した。ウズベキスタンでは最低でも1人が働いている世帯の数が40%を超える下落となった。 © The Economist Newspaper Limited, London (Issue Date)
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