Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/dad14a2147aba8d066266aea73235160b7cba7c9
近年、日本社会ではベトナム人の増加がいちじるしい。2010年の法務省の統計では4万1781人だった在日ベトナム人人口は、いまや45万7645人(2021年6月現在)。ほぼ10年間で約11倍になった。在日外国人の国籍別人数でも韓国人を追い抜き、1位の中国人の74万9147人に次ぐ。 【写真】この記事の写真を見る(8枚) ところで、近年になり急拡大を続ける在日ベトナム人社会の、「文化的拠点」はなにかご存知だろうか。それは寺院だ。ベトナムは社会主義国家なので、統計上は国民の70~80%が無宗教……ということになっているが、実際は仏教を信じる人がかなり多い。 複数の証言を総合すると、在日ベトナム人の場合は「全体の6割くらい」が仏教を信じている。日本国内のベトナム寺は、1980年代に日本に渡ったベトナム難民を中心に平成初期から作られていたようだが、最近になり数が増えている。近年の在日ベトナム人の多くは、技能実習生などの出稼ぎ労働者であり、ベトナム寺は異国で故郷の雰囲気を感じられる貴重な場所だ。 筆者は本来は中国ライターなのだが、近年は著書『 「低度」外国人材 』(KADOKAWA)をはじめ、在日ベトナム人の労働者や不法滞在者のコミュニティを追いかける機会も増えた。その取材過程で、いつしか数多く訪問したのが日本国内のベトナム寺だ。今回の記事ではそれらを紹介していこう。(全2回の1回目/ 関西編に続く )
日本の寺院を「居抜き」《埼玉県本庄市:大恩寺》
最初に紹介するのは埼玉県本庄市にある「大恩寺」(Chùa Đại Ân)だ。こちらは技能実習生問題についてテレビや新聞の報道があるたびに「技能実習生の駆け込み寺」という決まり文句で紹介される、おそらく日本でいちばん有名なベトナム寺である。 住職は尼僧のティック・タム・チー(Thích Tâm Trí、釈心智)さん。大正大学大学院を経て国際仏教学大学院大学博士後期満期修了と、日本で仏教学を専門的に研究した経歴を持ち、もちろん日本語は非常に流暢だ。もともとは東京都港区内にある浄土宗系の寺院・日新窟(こちらも「技能実習生の駆け込み寺」報道で有名だ)を拠点に活動していたが、2018年1月に本庄市で自分の寺を開いた。 とはいえ個人的には、大恩寺のいちばん興味深い点は、技能実習生問題がらみの手垢のついた話ではなく、実は「寺」それ自体にある。大恩寺の建物は、もともと御嶽教(おんたけきょう)という伝統的な山岳信仰や修験道にルーツを持つ宗教(教団としての成立は1882年)の、児玉三太気(みたけ)教会という信仰施設だったのだ。 御嶽教は神道系(教派神道)とはいえ、歴史的経緯から神仏習合的な性質が強く、本来は仏教の経典であるはずの般若心経を読んだり、不動明王を祀ったりもする。すくなくとも往年の児玉三太気教会の場合、ネットで見られる他の御嶽教教会と比較しても、たたずまいは神社よりもお寺にかなり近かったと思われる。
山岳信仰の礼拝所がベトナム寺に
だが、この本庄市の御嶽教の教会は、どうやら15~20年くらい前に教会長(建物の雰囲気からは「住職」と言いたくなる)が亡くなり、「空き寺」になっていたところ、豪腕尼僧のタム・チーさんが音頭を取って買い取り、ベトナム寺に改造したらしい。 事実、境内ではベトナムから寄贈された鐘やベトナム語のポスターなどに混じって、平成時代前半までに御嶽教の信者が寄贈した仏像や庭石も多く残る。本堂の巨大な太鼓には御嶽教マークが残り、磬子(読経のときに鳴らす鐘のような仏具)には御嶽教信者らしき日本人の奉納者名が書かれたまま……。つまり、日本社会の宗教施設だった時代の仏具がそのまま流用されている。 庫裏には御嶽教の神棚がそのまま残っている。さらに驚かされたのは、日本国内で亡くなったベトナム人たちの真新しい位牌(もちろんベトナム語表記)に混じって、御嶽教時代の信者らしき「〇〇〇〇信女霊位 平成十五年九月十六日」などと書かれた日本人の位牌が、いくつか残置されていたことだ。 もちろん、「住職」がいなかった時代と比べれば、朝夕に尼僧たちから御嶽教時代と同じく般若心経(ただしベトナム語)を上げてもらえるのは幸せなことかもしれないのだが、位牌の主である日本人たちは、死後の思わぬ運命の変転に驚いていそうだ。遺族は事情を知っているのか、いろいろ気になるところである。 近年、後継者不足によって潰れた古い蕎麦屋や寿司屋の建物に外国人の店舗が居抜きで入り、店内のインテリアにほとんど手を加えず什器もそのまま使用する形で、障子や座敷があるネパールカレー屋や中華料理店を「気合い」で経営しているような例が多く見られるようになった。 大恩寺はそれらの“仏教版”だといえそうだ。今後、地方において後継者不足から無住状態になった神社やお寺が、ベトナム寺や中国寺に改造されて第二の生命を吹き込まれる事例が増えていくかもしれない。
ベトナム戦争いまだ終わらず《埼玉県越谷市:南和寺》
埼玉県越谷市の「南和寺」(Chùa Nam Hòa)は2006年1月に作られた。日本国内のベトナム寺のなかでは古刹(こさつ)だ。 かつて1970年代後半から80年代にかけて、ベトナム戦争終結後の社会混乱により、南ベトナム地域の住民たちが大量にボートピープルとなり難民化、やがて日本は他国と協調する形で、おおむね8600人程度のベトナム難民(ラオスやカンボジアを含めると約1.1万人)を国内に受け入れた。南和寺は主にこのとき定住した元難民やその子孫が、お金を出し合って建立したという。 日本国内のベトナム寺は、それぞれのルーツをたどると、この南和寺のように祖国の共産化を嫌ったベトナム難民が建てた寺(南ベトナム系)と、先の本庄市の大恩寺のように現在のベトナム政府との良好な関係のなかで建てられた寺(北ベトナム系)の2パターンが存在する。ただし、両者に教義面の違いはほぼなく、参拝者たちもあまり建立の経緯を気にしていないようだ。 この南和寺、私は2013年末から翌年初頭にかけて数回取材に行ったことがあるのだが、近年はなかなか行けていない。寺に詳しい友人によると、最近は出稼ぎ目的で来日した技能実習生や、留学生らのニューカマーの参拝者が増加しており、インドシナ難民とその子弟が中心だった時代とは雰囲気が変わったという。 「旧正月に一緒に獅子舞をやっていたお兄さんが、実は不法滞在者だったと後になってから知りました(笑)」とは彼の弁である。 「ここは日本なのか?」住宅街にいきなり異国の寺、電飾で輝く地蔵菩薩…“ガチ越南”が味わえるベトナムタウンの実態 へ続く
安田 峰俊
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