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植村直己、河野兵市、長谷川恒男、星野道夫、谷口けい……。多くの登山家・冒険家は43歳で亡くなっている。探検家の角幡唯介さんは「おそらく経験の拡大に肉体が追いつかなくなり、万能感をいだいてしまうのだろう。そうした『43歳の落とし穴』を知っているからこそ、42歳の私はまた北極の探検に向かった」という――。 【図表】経験値と生命力 ※本稿は、角幡唯介『裸の大地 第一部 狩りと漂泊』(集英社)の冒頭部「四十三歳の落とし穴」を再編集したものです。 ■不吉な死の予言 村に来て何日かたったころだった。降りつもる雪を踏みしめて、イラングアが私の家にやってきた。 グリーンランド最北の村シオラパルクには今、四十人ほどしか住んでいない。二十代の男はわずか数人で、他の連中は隣のカナックや南部の都市にうつってゆき、日本の山村と同じように過疎化が進んでいる。イラングアは、わずか数人しかいない村の若い男連中のひとりだ。 彼が私の家に来るのは、めずらしいことではない。イヌイット社会には伝統的にプラットという、文字通りぷらっと他人の家を訪問してコーヒーを飲んだり、ぺちゃくちゃ喋(しゃべ)ったり、賭け事に興じたりする交流、暇つぶしの習慣がある。私は片言の現地語しか話せないし、客人をうまくもてなせるタイプでもないのでプラットにやってくる人は少ないのだが、人づきあいのいい彼は毎日のようにやってくる。そして誰それが猟に出て海豹(あざらし)を二頭獲ったとか、今日は天気が悪いからヘリは来ないよ、といった雑多な生活情報を教えてくれる。愛想がよくていつもケタケタ笑い声をあげ、冗談ばかり言って私をかつぐ、気のいい若者である。 そのイラングアがこの日にかぎっては、いくぶん真剣な眼差しでこんなことを言うのだった。 「カクハタ、あんた今四十二歳だろ。日本人は皆四十二歳で死ぬから、今年は旅をしないほうがいい。行ったら、あんた、死ぬよ」 これから旅に出ようという人間に、よくもそんな縁起でもないことを言えるなあ、と私は変に感心した。 「四十二歳は日本人にとって不吉な年なんだろ。ナオミだって死んだ。カナダで氷に落ちて死んだのもいただろ。日本人はみんな四十二歳で死ぬんだ。たぶんあんたも北方の旅から村にもどる途中、イータの地に立ち寄り、そこで命を落とすことになる。あんたの遺体はオレが六月に鴨の卵を取りにボートでイータにむかったときに発見することになるだろう。本当だよ」 ナオミというのはグリーンランドで英雄視されている冒険家植村直己のことであり、〈カナダで氷に落ちて死んだ〉というのは河野兵市である。植村直己が厳冬期のアラスカ・デナリで消息を絶ったのは一九八四年、一方、河野兵市は二〇〇一年に北極点から故郷愛媛をめざす壮大なプロジェクトの途上で氷の割れ目から海に落ちた。いずれも亡くなったときの年齢は同じだ。
それにしても……と私は不思議だった。どうして彼は、日本人冒険家の死亡年齢のようなマニアックな情報を知っているのだろう。日本の探検・冒険界でさえ、よほど関心のある人しかそんなことは知らないはずなのだが……。千里眼か? といささかうす気味悪くなった。 イラングアはにやにやと悪戯(いたずら)っぽい笑みを浮かべた。 「ふふふ、オレはアンゲコだからね」 アンゲコとはシャーマンのことである。このひと言を聞き、私は彼がいつものように悪ふざけを言っていることがわかった。植村直己と河野兵市のことは、おそらく山崎さんにでも吹きこまれたのだろう。シオラパルクには四十年以上この地で猟師生活をいとなむ大島育雄さんと、冬の半年のあいだ、村で犬橇(いぬぞり)活動をつづける山崎哲秀さんというふたりの日本人がいて、地元民にとけこんでいる。 ただ、彼のひと言がイヌイット一流のブラックジョークであることがわかっても、私はちょっと嫌な感じがしたのだった。 ■「嫌な予感」その理由は… イラングアは、植村直己と河野兵市が亡くなったのは四十二歳だと言っていたが、じつはそれはまちがいで正確には四十三歳である。そして私はすでに四十二歳になっており、四十三歳は目前、四十三歳の勢力圏に入ったも同然であり、四捨五入すれば四十三歳みたいなものであった。 たしかに四十三歳で遭難する冒険系著名人は少なくない。なぜか不思議なほどにつぎつぎとこの世を去ってゆく。 イラングアが言ったとおり、植村直己が行方不明になったのは四十三歳になった直後であり、河野兵市も四十三歳となったその約一カ月後に亡くなった。 そして、遭難したのはこのふたりにとどまらない。 ヨーロッパアルプス三大北壁冬季単独登頂で有名な長谷川恒男がパキスタンのウルタルII峰で消息をたったのも四十三歳、写真家の星野道夫がカムチャッカ半島で熊におそわれたのも四十三歳、最近でいえばカメット南東壁を初登攀(はつとうはん)し、女性として世界で初めてピオレドール賞を受賞した谷口けいも四十三歳で北海道黒岳で滑落した。
■冒険家5人の遭難は偶然か 四十三歳になると多くの登山家、冒険家が死ぬので、私はかねてからこれを“四十三歳の落とし穴”と勝手に名づけ、ひそかに注目していた。一見ただの偶然のようにも思えるが、しかし偶然で片づけるにはあまりにも一致しすぎている。彼らが死にいたった状況を個別具体的に検証分析したことは、とくにないのだが、自分自身が四十に近づき、そして四十を越え、問題の四十三歳が近づいてくるにつれ、私はこの年齢が人生においていかなる意味あいをもつのか、切実な問題としてとらえるようになっていた。 四十歳を過ぎたとき、人はそれまでとは異なる人生の新しい局面に足を踏みいれる。おそらく多くの冒険家が四十三歳で遭難するのは決して偶然ではない。うっかり死の淵(ふち)に迷いこんでしまうだけの理由が、この年齢にはあるのだ。 四十三歳――。 それは、私の考えを述べれば、経験の拡大に肉体が追いつかなくなりはじめる年齢である。 人間誰しもひとつの物事に打ちこみ、経験をつんでいけば、いろいろなことがわかるようになってくる。経験とは何かというと、ひとつには想像力がはたらくようになることだ。 ■探検のはじまり 私が探検、冒険の世界に踏みだしたのは、大学探検部に入ったのがきっかけだった。学生時代に力を入れていたのは沢登りだったが、当然ながら最初は奥多摩や丹沢など東京近郊の小さな沢しか登れなかった。しかし慣れてゆくとまもなく南アルプスや東北地方のちょっと大きくて難しい沢に入渓するようになり、滝やゴルジュ(せまく切り立った淵。中に滝がかかっていたりして突破困難な場合が多い)でロープを使った登攀をおぼえると、今度は登攀自体をもう少し真面目にやりたいと考えるようになる。そして岩登りやアイスクライミング、冬季登攀と登山の指向も変化していく。 登山のグレードが上がり、その時々の個人的な限界を超えると、それまでは限界線のちょっとうえにあった山が、急に経験の内側におさまって限界線のしたにくるようになる。そうなると、この前まで必死に登っていた山もさほど難しいものではなくなり、苦もなく登れたりする。 忘れもしない奥多摩海沢(うなざわ)でのはじめての沢登り。あのとき私は、最後のIII級の滝を登りながら踵(かかと)をふるわせ顎をがたがたならし、足下の滝壺に死がとぐろを巻いていることをひしひしと感じたものだ。ところが、つぎの登山で同じ等級の滝に登ってみると、わりと平気になっていて、そのうちIV級、V級とグレードを上げるにしたがい、この前まで死の隣にあったIII級の滝がロープなしでも登れるようになったりする。
■経験と予測は相関する 同じ調子で探検や登山に慣れてくると、今度は海外に行き、よりスケールの大きな舞台をもとめるようになる。チベットの無人の大峡谷を単独で探検したり、さらに北極の氷原を二カ月かけて千キロ歩いたり、カヤックで氷海を航海して海象(せいうち)に襲われて逃げまどったり、太陽の昇らない闇の極夜をひとりで彷徨(ほうこう)したりするうち、世界はさらに大きくひろがっていく。 このように経験をつんでいくと、やったことのない行為や、足を踏みいれたことのない未知の現場でも、これまでの経験でいろいろ予測できるようになるため、未経験の分野に挑むことにさほどの抵抗感がなくなる。簡単にいえば、今までこんなことをやったんだから、あれもできるし、これもできるなぁという気がしてくる。 実際にできるかどうかより、たぶんできるはずだと思えるようになるところがポイントだ。 若くて経験値がひくく想像力が貧困であれば、実際の経験の外側にある未知の世界は、純粋に未知で、予測がつかないぶん恐ろしく、そこに手を出すことなど考えられない。あるのは体力だけ、だから思いつく計画のレベルもたかが知れている。 ところが経験値が増して世界が大きくなると、その外側にある未知の領域のこともなんとなく予測できるようになり、いわば疑似既知化できる。予測可能領域がひろがり、本当は未知なのに、なんだか既知の内側にとりこんでしまっているような感覚になり、それなら対応可能だろう、と思えてくるのだ。だからカヤックの経験が皆無でも、北極で長期の旅を何度もこなしていれば、つぎは北極をカヤックで旅するか、という発想がおのずとうまれる。経験と予測の相関関係はこのような仕組みになっている。 ■「なんだってできる」はずなのに その結果、二十代や三十代のときには到底考えられなかったようなスケールの大きい、難度の高い行為も、十分に現実的な対象だととらえられるようになり、今の自分にはそれへの挑戦権があると思えるようになる。経験によってひろがる想像力が幾何級数的にふくらんで、なんとなくいろんなことが予測できるので、困ったことに四十頃になると、オレにはなんでもできる、あの状況になっても対応できるし、この状況になっても死にはしないだろう、という倒錯した万能感さえいだくようになってゆく。
ところがちょうど同じ頃、肉体には逆の現象がおとずれる。何かというと、言わずもがな、体力の衰えという厳しい生物学的現実との直面だ。無論、鍛錬をつづければ四十を越えても或る程度の現状維持は可能であろうが、常識的に考えて、二十代や三十代のときのように、やればやるほどぐんぐん強くなってゆく、ということはちょっと考えにくい。 それに問題はむしろ体力より気力の低下だろう。気力とは、すなわち生き物としての勢い、といいかえてもよい。 二十代や三十代は生命体としての内燃機関の性能が高く、摂取したエネルギーを即座に行動にかえるだけの燃焼力がある。なので何か計画を思いついたら、その衝動につきうごかされるように、すぐに行動に取りかかることができる。むしろ頭では落ちつけ落ちつけとなだめても、身体のほうがもういてもたってもいられなくなって、爆発しそうな勢いでつぎの日には飛び出してしまう、という状態だ。 ■40代が直面する悲しい現実 だが四十を過ぎると、どうしたって肉体の燃焼力は低下し、何か行動にとりかかるとしても、自分の尻に鞭をうち、叱咤(しった)激励して自らを鼓舞しなければ実行できない。生命体としての総合的なパワー、すなわち生命力が下降し、なんか面倒くさいなぁと腰が重くなりはじめるわけだ。それが気力の低下とよばれるものである。 横綱千代の富士が引退会見の席でのこした名台詞、「体力の限界……気力もなくなり、引退することになりました」とはこのような意味だったと解することができる。正確には千代の富士が引退したのは三十五歳だが、相撲とちがって冒険のほうは瞬発系ではなく持久系の運動なので、行為者としての寿命はもう少し延長され、四十三歳ぐらいでそれがくると考えられるのである。 このように四十になると、人の世界は経験によって拡大膨張し、その大きくなった世界をよりどころに様々な局面を想像できるようになり、冒険家にはなんでもできるという自信がうまれる。つまり経験値のカーブは上昇線をえがく。その一方で、肉体は衰えはじめ、体力や勢いや気力などが低下し、個体としての生命力は下降線をしめす。
■グラフから見る「43歳」 もし、この二つの曲線を、x軸を年齢、y軸を実行力とする座標上に書いたら、つぎのようなグラフになるだろう(図表1)。 若い頃は経験値をしめす線(経験線)がしたで、生命力をしめす線(生命力線)がうえにあり、その差は大きい。しかし経験線が年齢とともに上昇する一方で、生命力線は下降するわけだから、両者のあいだの差はじわじわ縮まっていき、どこかの時点でまじわることになる。そしてこの交点をさかいに両者の位置関係は逆転し、経験線がうえにきて、生命力線がしたにくる。おそらくこの交点は四十歳か四十一歳あたりにくると考えられる。 この推察が正しければ四十二歳から四十三歳にかけては、上昇する経験線と下降する生命力線のあいだのひらきが大きくなりはじめる年齢ということになる。その後、加齢にしたがいどんどんひろがっていく。 このグラフが意味するものは、肉体にしばられた人間という生き物の悲しい現実だ。 ここまで論じたように四十三歳の冒険家は経験値があがり、いろいろなことが想像できるようになり、どんな冒険計画でも実現可能だというある種の万能感をいだいている。若い頃には到底思いもよらなかった大きな規模のことを思いつき、それを実行できる自信がある。思いつく計画はしだいにスケールアップするため、規模は大きくなってゆく。 ■「落とし穴」の正体 でも現実としての肉体は衰えはじめている。本人は衰えを認めたくないし、まだ十年前と同じ体力を保持していると思っている、というかそう信じたい。だから、まだまだ行ける、行けるはずだ、おれは……と過去の幻影にしがみつき、そのスケールの大きな冒険を実行することになる。その結果、下降線をたどりはじめた肉体が、拡大するおのれの世界に追いつかないという現実が待っている。そして遭難する。 上昇する経験線と下降する生命力線のあいだにひろがる領域は、冒険家にとっては魔の領域だ。この領域にはまると、衰えゆく肉体でスケールの大きな冒険を実行するわけだから、危険度が増す。先ほどのグラフでしめしたように、経験の世界は拡大膨張し、上昇線をえがくが、生命力のほうは下降線をたどりそれに追いついていかず、逆に年齢をかさねるごとに肉体と経験の差はひらく一方となる。すなわち、このゾーンが四十三歳の落とし穴なのである。 四十二歳という、まだ四十三歳ではないが四捨五入したら四十三歳みたいな年齢に突入している私は、すでにこの魔の領域に足を踏みいれていることを自覚していた。
■「魔の領域」に入って初めて気が付いたこと 実際、四十になる前から、私はこの四十三歳の落とし穴という人間法則を認識していたので、自分が四十二とか四十三歳の該当年齢になったら決して危ない旅には出ず、家でまったり、のんびりお茶でも飲んですごして、家族でハイキングや温泉旅行を楽しみ、せいぜいライトな沢釣りや雪山に行く程度にとどめよう、などと呑気(のんき)なことを考えていた。現実問題として死の危険が高いことはわかっているのに、なぜ皆わざわざその年齢で危ない冒険に出かけるのか、家でのんびりして四十三歳はやりすごし、四十四歳になったらまた本格的に活動すればいいじゃないか、阿呆ではないか、と心のなかで余裕をかましていた。 それに個人的には前の冬に極夜の探検という、四年がかりの大きな探検プロジェクトを終え、それなりの満足感をおぼえていた。常識的に考えたら、そのつぎのシーズンにまた同じ地域で探検活動をおこなう理由はなく、すくなくともワンシーズンぐらいは家で休養し、海で子供と遊んですごすのが道理である。 ところが現実に自分がその年齢圏に足を踏みいれると、まるでそんな考えなど忘れたかのように、性懲りもなく、いそいそ北極に来てしまっている自分がいるのである。 いったい、どうしてこんなことになるのか? 四十三歳が近づき、気がついたことがひとつある。それは、この時期を家でまったりやりすごすことはありえないということだ。実際にその年齢にさしかかると、危ない時期だとわかっていてもやるしかないのである。なぜか? それは焦燥感が生まれるからだ。 私は自分がその年齢になるまで、この焦燥感についてまったく想像できていなかった。 ■ここで生まれる人生最高の思いつき くりかえしになるが、人間、ひとつの物事に打ちこみ四十を過ぎると、経験値があがって様々なことを想像できるようになるため、若い頃には考えられなかった、自分だけの壮大な計画を思いつくことができるようになる。 この〈思いつき〉というやつは、それまでの独自の経験をふまえているだけに、その人ならではのものとなってゆく。なぜなら経験をつむということは、あ、前回はこういう経験をしたから、つぎはそれをふまえてこういうふうにやったらもっと面白くなるんじゃないか、という発見のくりかえしだからである。こうした気づきと改善をくりかえすうちに、その思いつきは、他の人が思いつくものとは徐々にずれてゆき、結果、四十過ぎになると、その人にしか閃(ひらめ)かない、じつに固有度の高いものになってゆく。 その意味で四十三歳で思いつく構想は、確実にこれまでで一番自分らしい最高の行為となるはずである。地道にひとつのことをつづけ、世界を深めてゆき、そしてこの年齢に達すると、どうしてもそういう面白い行為を思いついてしまうのだ。
ところが、その一方で肉体は衰えはじめ、生命体としてのパワーが下降線をたどり、全体的に勢いがなくなり、この過去最高の表現を実現するだけの時間はもうあまりのこされていないとの自覚もめばえる。 その結果どうなるか。当然つぎのような発想になる。 今は身体がまだ動くので、なんとかなりそうだ。なら、身体が動くのこり少ないわずかな時間をつかって、この固有度の高い思いつきを実行しなければならない。なにしろ思いついてしまったのだ。思いついてそれをやらなければ、私の人生はそれを思いついたのにやらなかった人生に頽落(たいらく)し、布団のうえで死ぬときにかならず、嗚呼(ああ)オレはあれをやらなかった……と後悔することになる。 ■過酷な旅への原動力 でも、やれば人生を肯定できる。その機会を逃したくない。だったら今のうちにやるしかない。今やらないと、もう身体が動かなくなり、この思いついた固有の行為を実行するチャンスを永久に逃してしまうかもしれない。もし今年、まったりと家ですごしてワンシーズンを無駄にしたら、そのつぎのシーズンはもっと気力が衰えているだろうから、そのぶん、その自分由来の行為をものにできる可能性は低くなる。今やるしかないのだ――。 四十三歳で多くの冒険家が死亡するのは、たぶん、体力が経験に追いつかなくなることより、むしろのこされた時間が少ないと感じて行動に無理が出るからだ。 南極大陸犬橇横断を最終目標としていた植村直己が、やらなくてもいいように思える冬のデナリにあえてむかったのは、なんでもいいから身体を動かしておかないと、南極が、すなわち彼固有の、彼にしか思いつけない最高の行為が遠のくという焦りがあったからだ。北極点から愛媛の自宅に帰るという旅に出発した河野兵市にも、おなじような焦燥があっただろう。 すくなくとも、二〇一八年三月に私をシオラパルクにむかわせた原動力として、この年齢の焦りは確実に作用していた。私がやりたかったのは、北極で狩りをしながら長期に漂泊することだ。それは今年やらなければ、もう永久にできないことだと思われた。 ---------- 角幡 唯介(かくはた・ゆうすけ) ノンフィクション作家 探検家 1976年、北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。同大探検部OB。2003年に朝日新聞社に入社。08年に退社。謎の峡谷・チベットのヤル・ツアンポーの未踏破地域の探検を描いた『空白の五マイル』は開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞、梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞。ネパール雪男捜索隊の体験記『雪男は向こうからやって来た』は新田次郎文学賞を受賞。16~17年、太陽が昇らない冬の北極圏を80日間にわたり探検し、18年『極夜行』(文春文庫)で第1回Yahoo! ニュース 本屋大賞ノンフィクション本大賞、第45回大佛次郎賞。他著書、受賞多数。19年から犬橇での旅を開始、毎年グリーンランド北部で2カ月近くの長期狩猟漂泊行を継続している。近著に『狩りの思考法』(アサヒ・エコ・ブックス)、『裸の大地 第一部 狩りと漂泊』(集英社)などがある。 ----------
ノンフィクション作家 探検家 角幡 唯介
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