Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/c9f2b0e3fe62df89cf5542165d3801276db1defa
天野 久樹(ニッポンドットコム)
ユニセフ親善大使・黒柳徹子さんとともに訪ねた、世界各地で紛争や自然災害に負けず、たくましく生きる子どもたち。卒寿を迎えてなお、「子どもは社会を映し出す鏡」とカメラを構え続ける田沼武能(たけよし)さんがとらえたその姿とは―。本書は35年余にわたる親善訪問から生まれたベスト・ショットと心温まるエピソードを綴ったフォトエッセイである。
「自費でも同行したい」
ユニセフ親善大使とは、国連機関のユニセフ(UNICEF=国連児童基金)が発展途上国の子どもたちの“代弁者”として任命するもの。子どもの福祉や人道活動に強い関心を持つ世界の著名人の中から選ばれる。年俸は1ドル。名女優オードリー・ヘプバーンさんも生前務めており、現在は黒柳さんを含め6人が活動を続けている。 黒柳さんが親善大使に選ばれたのは1984年、51歳の時。「アジアから誰か親善大使を」とのユニセフのリクエストを受け、国連難民高等弁務官を務めた故緒方貞子さんが推薦した。ちょうど『窓ぎわのトットちゃん』の英語版が出版されたばかりで、同書を読んだ多くのユニセフ関係者から支持を得た。 その黒柳さんは、親善大使の初仕事でタンザニアに行った際、スワヒリ語で子どものことを「トット」というのを知り、感動する。こんな偶然があるのだろうか。私の幼い頃の愛称がアフリカでは「子ども」という意味だなんて……。 以来35年余、黒柳さんが視察に出かけるたびにカメラマンとして同行するのが田沼さん。黒柳さんが親善大使に任命されるとすぐに、「世界の子どもたちを撮りたい。費用は自分で出すから助手と一緒に同行させてほしい」と申し出たという。 「世界的な子どもの写真家は、どんな砂漠の、ほこりの中でも、人混みでも、目は澄んでいて……。(中略)こういうチームがいつの間にかできて、私は励まされ、毎年やってこられました」。黒柳さんは、自著『トットちゃんとトットちゃんたち』(2001年、講談社刊)の中でこう語っている。
子どもは社会を映し出す鏡
田沼さんは1929年、東京・浅草で写真館の次男坊として生まれた。東京写真工業専門学校(現・東京工芸大学)を卒業後、総合グラフ誌『週刊サンニュース』を発行するサン・ニュース・フォトスに入社。日本写真界の巨匠、木村伊兵衛氏に師事する。『芸術新潮』の嘱託として文化人の肖像写真で注目を集めたのち、フリーランスとなって米誌『ライフ』『フォーチュン』等で活躍。85年に菊池寛賞を受賞、95年から20年間、日本写真家協会会長を務めた。2019年には写真家として初めて文化勲章を受章している。 報道写真家として第一線に立ってきた田沼さんが、ライフワークの一つとして打ち込んでいるのが「世界中の子どもたちを撮る」こと。「子どもは社会を映し出す鏡」とのポリシーの原点は、16歳の時に遭遇した東京大空襲にある。 1945年3月9日夜半。火の海の中、父と自転車に二人乗りして隅田川河畔まで逃げ延び、九死に一生を得た。夜が明けて自宅に戻ると、焼け落ちた家の前にあった防火用水槽の中に、直立不動の姿で幼児の焼死体があった。 それは近所のお寺でよく見かけたお地蔵さまにそっくりで、田沼さんは「地蔵さまは子どもの化身」ではないかと思った。炎に煽られた母親が、子どもを熱さから逃すために水槽に入れたのではないか。なんともいえぬ切なさ、無常を感じたという。 本書「写真家への道すじ」の中で田沼さんはこう語る。 『戦争は人間の起こす最大の愚行である。戦争の悲劇は最も弱いもの、子どもや女性にいやおうなく襲いかかる。子どもは自分の運命を選ぶことはできない。この体験が、後にドキュメンタリー写真家の道に向かわせたのだと思う。』
写真家にゴールはない
田沼さんは黒柳ユニセフ親善大使とともに40近い国々を訪問し、難民・避難民キャンプで暮らす子どもたちを取材してきた。本書では、そのうち2000年前後から2019年にかけて訪れた際に出会った子どもたちを取り上げている。 印象的なのは、戦火や災害を逃れてきた子どもたちが元気よく遊んだり、青空教室で授業を受けたり、一生懸命、前向きに生きている姿だ。カメラにぶつける好奇心に満ちた笑顔。大津波で打ち上げられた貨物船や廃墟の中で遊び、家畜を追って働く。水汲み、薪拾い、子守り……。人一倍働きながら、家族とともに生きている。貧しくとも心は豊か―そんな光景に田沼さんは終戦後の東京の下町を重ね合わせる。そして子どもたちの“魂”を、まるで空気のように、電信柱にでもなったように、付かず離れず、絶妙な間合いで撮り続ける。
黒柳さんは、子どもたちの前では涙を見せない。だが、帰国して田沼さんの写真を見て泣くのだという。本書の「はじめに」でこう明かす。 『たとえば親が殺され、子どもだけになった、裸足の子どもたちが、そんな中でも、毛色の違う私に興味を持って握手をしたがる。私は次々と握手をしますが、手を握っている子どもを見ているので、他をあまり見ていません。田沼さんは、そんな時、まわりの子どもたちを撮って下さっています。ボロボロの洋服に、裸足。本当にひどい格好になりながら、私に握手をして、と横並びに並んでいる子どもたち。みんな興味津々で、ニコニコして、私に手をのばしています。そういう無邪気な子どもらしい写真を見ると、私は思わず涙が出ます。なんて子どもは、けがれがなく、美しいんだろう! そう思うからです。』 両腕を鉈(なた)で切り落とされた元少年兵、児童婚を余儀なくされた女性、臓器摘出の犠牲になった子どもたち……過酷な現実を目にするたびに心が威圧されるが、この仕事をやっていてよかったと心が救われる瞬間もある。 2009年に訪れたネパールで15歳の少女に出会った。10歳くらいにしか見えない彼女は、川に入り、胸まで水に浸かって砂や石を背中のかごに入れていた。1回の運び賃は7円ほど。「大きくなったら洋服屋さんになりたい」と目を輝かす彼女に、黒柳さんは「私はテレビに出ているので、着たいから早く洋服屋さんになってね」と励ました。 それから7年後、再びネパールを訪問する機会が巡ってきた。ネパールのユニセフ職員が以前のことを覚えていて、“少女”を連れてきてくれた。すっかり大人びた彼女は、なんと洋服をつくる仕事を始めていた。そして自分が仕立てた白い木綿のブラウスを黒柳さんにプレゼントしたのだ。 新型コロナウイルスの感染拡大以降、親善訪問はストップしたままだ。だが、黒柳さんはいつ再開されてもいいように、毎晩、就寝前にスクワットを50回やって備えているという。 そんな彼女に田沼さんも熱きメッセージを送る。写真家にゴールはない。伝えなければならない子どもたちが世界にはまだたくさんいる、と決意を新たにするのだ。 『世界中どこの国の子どもも生まれてくる時は皆同じ、裸で産声をあげる。(中略)子どもは生まれてくる時に、国も親も選ぶことはできない。子どもの権利条約第六条には、「すべての子どもは生きる権利をもっている。国はその権利を守るために、できるかぎりのことをしなければならない」とある。これからも「助けを求める子どものいる限り」黒柳親善大使とともに活動したいと思っている。愛する子どもたちのために……。』
【Profile】
天野 久樹(ニッポンドットコム) ライター(ルポルタージュ、スポーツ、紀行など)、翻訳家。ニッポンドットコム編集部チーフエディター。1961年秋田市生まれ。早稲田大学政治経済学部、イタリア国立ペルージャ外国人大学卒業。毎日新聞で約20年間、スポーツ記者などを務める。著書に『浜松オートバイ物語』(郷土出版社/1993年)、訳書に『アイルトン・セナ 確信犯』(三栄書房/2015年)。
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