Source:https://jp.globalvoices.org/2022/12/05/60671/
(原文掲載日 2022年9月16日)
アシシュ・ダカルによるこの記事はネパール・タイムズに最初に掲載されました。グローバル・ボイスとのコンテンツ共有契約にのっとり編集版をここに再掲載します。
カトマンズを拠点に活動している映像作家、ディーパック・トランジは7年前にベルリン国立アジア美術館を訪れ、ネパールの展示物を見つけ出した(写真上)。同じ階にあるチベット工芸品展示コーナーに隣接したネパールの広い展示区画でのことだった。
展示品の中に、宝石や金銀をちりばめ絢爛豪華な装飾が施された、70.5センチメートルの2段式の仏教祭壇がある。下段には3体の菩薩の立像が、そして上段には別の3体の仏像がまつられていた。
それはネワール族の建築様式で作られていた。トーラナ(扉)や図象やジャラ・ヌアカ(小鏡)がそうだが、屋根はチベット風だった。仏像をよく調べてみると辰砂やサフランの粉末の形跡が見つかり、この祭壇が長い間礼拝の対象とされてきたことがうかがえた。
ネパール人の血が騒ぎ出したトランジは、この時代物の祭壇はご多分にもれずカトマンズ盆地の寺院からの盗品ではないかと疑いを抱いた。
ネパールからの宗教的遺物の盗難が初めて歴史に刻まれたのは1765年で、ハヌマーン・ドカ宮殿のバグワティ寺院からナラヤン像が姿を消した時だ。ネパールが外国に門戸を解放し始めた1960年代に略奪はピークに達した。現在では市民団体や行政の取り組みが成果をあげ、海外の美術館や収集家たちから盗品像の返還が続いている。ネパール考古学局(DoA)によると、ここ数十年の間に93もの宗教遺物が返還され、そのうちこの7月以降返還されたものは19に及ぶ。
話をベルリンに戻そう。トランジはベルリン自由大学のベルナデッテ・ブレスカンプにアプローチした。東アジアの芸術と仏教芸術を研究しているブレスカンプに話を聞いてわかったことにもとづき、トランジは『仏教祭壇』(Buddhist Shrine)と題する6分の短編映像を制作した。
「その祭壇が本当に盗品なら、ネパールへ返還されるべきじゃないかと思ったんです」とトランジは当時を思い出した。
美術館の鑑定によればその祭壇は19世紀のものだ。美術館の目録には、1936年にカール・マインハルトという人物によって美術館に売却されたと記載されている。しかしそれ以上のことは明らかではない。当時ヨーロッパでは戦雲が立ちこめていたので、マインハルトにはお金が必要だったのかもしれない。それで彼は祭壇を美術館に売る気になったのではないかとトランジは推測した。
他に記録はなく、保存されなかったかその後の戦争中に紛失したのであろう。ひとつだけ確かなことは、マインハルトはこの祭壇が本当にネパールのものだと美術館に告げていたことだ。
トランジ制作のこの短編映像は2015年にベルリン国立アジア美術館で上映され好評を得た。「上映後には熱心に質疑応答が交わされました」とトランジは振り返る。「皆がその祭壇が本当に盗品なのかを知りたがりました。もし本当にそうなら返還されるべきだと思ったのです」その問いは未回答のままである。
2016年、トランジは修士課程の現地実習のために3ヶ月間ネパールに帰国した。美術館で見た祭壇が心から離れず、その背後にもっと大きな事実が隠されているのではないかと彼は考えていた。
彼はパタンへと向かいビン・ラトナ・シャキャと面会した。シャキャはベテランの彫刻家で、彼の父親がベルリンにある祭壇とよく似たものを6基作っていたことを覚えていた。それが重要なてかがりとなって、サチャ・モハン・ジョシ、スクラ・サガール・シュレスタ、ムクンダ・ラジ・アリアルといった歴史家たちやカトマンズ盆地保護トラスト(KVPT)のロヒト・ランジットカルらと話し、ボダナートへ出向いて僧侶のダルマチャリア師と面会した。
そんな人たちと話してみて、遺物の盗難についてより詳しいことがわかってきたが、ベルリン美術館の祭壇については具体的な答えは得られなかった。トランジは「それらは家庭内で使われることが多く、カトマンズのバンガル・バザールの人たちによって作られ続けている」と言う。
職人たちが作品に名前を記すことはないので、追跡は難しい。トランジの話は続いた。「その上、祭壇業者は客には芸術品としての値段で売り、職人には労賃分の金額しか支払わないのです。芸術家は必ずしも才能に見合った評価を受けるとは限らないし、ここでもそんな慣習は続いているというわけです」
卒業と同時にトランジは美術館にこんな提案をした。ネパール側から見た話をつけ加え、新たな発見をもとにした少し長めでより詳細な映画を作りたいと言うのだ。数々の調査を重ねたのち、2022年に『仏教祭壇』(Buddhist Altar)というタイトルで16分間の作品が完成した。
新型コロナによる入国制限が解除されたのち、トランジはランジュン・イェシェ・インスティチュートのケンポ・ギャルセン師とハサンタル尼僧院のロポンマ・アニ・プンツォク・ウォンモ師を訪ねた。また仏教寺院をいくつか参拝し、パタンの黄金寺院やカトマンズのスワヤンブやボダナートなどをはじめとする僧院で伝統的儀式を見学した。
「多くの仏教祭壇で仏陀像は中心におかれ身体を表し、その右側にある仏塔は仏陀の精神を、左側にある経本はダルマ、つまり仏陀の説教や教えを表していることがわかりました」とトランジは語った。
仏陀像を取り巻くように安置される仏像は民族や家族によってさまざまだ。まさに映画の中でビン・ラトナ・シャキャが言ったように、どんな神仏もまつられてよいのだ。
ベルリン美術館にある祭壇を作ったのはネワール族の人で、おそらくパタン出身だと歴史家たちは確信している。しかしチベットの影響も見られるので実際にどこで制作されたかについては少し疑わしい点が残る。歴史的に見て、これらは家庭での礼拝のために注文されたもので、ベルリンにあるものも同様である。おそらくはマインハルト自身の発注であろう。
何よりもまず探求の旅を描いたこの映像で、トランジはこの祭壇に施された密かな技巧を解明しようと、古いものから現在のものまでその技法を丹念に調べ上げた。映画には山々、丘、寺院などのイメージカットを挿入し、この祭壇が今まさに生きている文化のひとつであるという文脈に沿って、カトマンズ盆地で今でも見ることができる宗教的習合に焦点を絞って制作した。
この映画はフンボルト・フォーラムの常設展に選ばれた。ベルリンを本拠地とするこの施設内に移転したアジア美術館の開館を祝って、9月16日にはこの祭壇の展示の隣で上映されることになっている。
トランジはこの映画をネパールの人々にも見てもらうつもりだ。彼はこう語っている。「映画を作ってみて、私は祖国とその文化を再発見できました。映画を作っていなければ、この祭壇とその大切さについて何も知らないままだったでしょう」
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