Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/9232c49855e22a2f2aad741fad118d73a31ee2f1
美容師、ネパール探究家 稲葉香さん
大阪市内で美容師をする傍ら、2007年からネパール北西部のドルポに通い続けている。19年11月から翌年2月まで、標高4000メートル、氷点下20度近くにもなる村で越冬し、チベット仏教に根ざした現地の人たちの暮らしぶりを記録して世に伝えた。その功績が認められ、昨年、「植村直己冒険賞」を受賞した。 【写真】ネパールで越冬中の稲葉香さん
ドルポは中国国境近くの秘境で小さな村が点在する地域だ。車が通れる道はなく、90キロ離れた街から8日間かけて歩いていくほかない。だが、そのおかげで、一帯は1000年以上前から続くチベットの文化や風習がほぼそのまま残っている。最近は電波の状況は悪いながらも携帯電話が使えるようになり、人々の暮らしが急速に変わりつつある。 伝統の暮らしをみることができる最後の機会だと思い、身長154センチの小さな体で現地のガイドとともに5000メートルを超える峠を二つ越えて現地に向かった。滞在したドルポの冬は雪に閉ざされ、多くが村を出てまちで暮らす。残った人たちは女性と子どもが多く、毛糸を紡ぎながら、ひたすら祈りを捧げる。寺院では村人が「プジャ」と呼ばれる法要に集まり、3日間泊まりこみで飲まず食わずでお経を唱え続ける。極寒の中、両手両ひざ、額を地面に投げ出して礼拝する「五体投地」をする人たちもいる。 1月の厳冬期には、ベースキャンプにしていたサルダン村から1日かけて歩き、テェーカンという村でキャンプをした。庭先にテントを張らせてもらった僧侶の家で出会った少年(11)のことが忘れられない。修行のためにこの家に寝泊まりしていた少年は毎日、200メートル下の谷底に流れる川まで水くみに行く。20キロにもなるポリタンクをかつぎ、凍った山道を運動靴で、手作りした木の先に石をくくりつけた道具で氷を割りながら登っていた。 「ドルポで暮らす人たちの内側からわき出る強さがとても美しくて、まぶしかった。心の中心にある根本的なものがずっとぶれずにある。外見をきれいにする美容師という仕事をしてきた私はいったいこれまで何をしてきたんだろう。そう思った」
18歳でリウマチに 生きざま変えた
高校卒業後に美容専門学校に入ってまもなく、手首や足首に痛みを感じるようになった。最初は髪にウェーブをつける練習のしすぎで腱鞘(けんしょう)炎になったのかと思った。だが、自転車に乗っていて事故に遭い、ねんざして通院した病院で検査したところ、リウマチと診断された。治療をうけてもよくならず、大阪市内の美容室で働くようになると痛みはひどくなるばかりだった。 「10年もすれば歩けなくなるかもしれない。今のうちにいろんなものをこの目で見たい」と、世界を旅するようになった。24歳でベトナムのホーチミンに行った時のことだ。両足を失った男性がスケートボードにのって、車やバイクが激しく行き交う大通りを渡っていた。両手を挙げて「俺はここにいるぞ」とアピールする男性に、「パンチをくらったような気がした。戦争の影響で手足を失った多くの人と遭遇した。自分は痛い痛いといいながらも足を切らずに済んでいる。すごく恵まれている」と感じた。 27歳の時、たまたま手に取った本で冒険家植村直己の存在を知った。01年、植村が消息を絶ったデナリ(マッキンリー)を見たいと米アラスカ州を旅した。翌02年、29歳になった稲葉さんは自分と同い年の時に植村が登頂したエベレストをひと目見たいとネパールを目指した。それが、ネパールとの出合いだった。 その時のことは今も忘れられない。プールで泳いで体力づくりはしたが、本格的な登山はしたことがなかった。無謀とも言える旅に、友人たちは猛反対した。関西空港を出発した時は激痛で抱えられるように歩いていたのが、首都カトマンズにつくと痛みがやわらぎ、エベレスト登山の玄関口ルクラから1日歩いて泊まった宿で朝、目が覚めると痛みが完全に消えていた。18歳から10年余りずっと薬づけの生活だったが、初めて「山で病気が治せるのではないか」と思った。実際、帰国してから薬を少しずつ減らし、5年間は薬をやめることができた。 「ネパールにいると、ふだん使わないけど人間が本来持っているバランス感覚、生きる力が呼び覚まされる。そんな感じがした」 そんなネパールにどんどんのめりこんでいった。いろいろと調べているうちに、同郷の大阪出身で僧侶だった河口慧海(1866~1945)にたどりついた。慧海は中国や日本に伝えられていた漢訳の仏典に疑問を感じ、仏教本来の教えを知りたいと、およそ120年前に日本人として初めて、当時鎖国状態にあったチベットにインドを経由してネパール側から密入国。自らの素性を隠しながら、現地で仏教を学んだ。その体験を帰国後に「西蔵旅行記」に著し、評判を呼んだ。 さらに調べていくと、慧海は同じくリウマチを患い、痛みと闘いながら聖地ラサを目指したことを知り、「運命を感じた」という。慧海と同じ道をたどってチベットを目指したいと思うようになった。 そこから、ネパール通いが始まる。慧海が歩いた道を自らの足で歩き、足跡を訪ねた。07年からは、同じく慧海の足跡を調べてヒマラヤ北西部を踏破していた、日本山岳会会員の大西保さん(1942~2014)らがつくった大阪山の会西北ネパール登山隊に加わり、秘境ドルポに入るようになった。ネパールの魅力を多くの人に知ってもらいたいと旅行会社とトレッキングツアーを企画し、現地の案内もするようになった。パートナーの中野一さん(49)は「自分が好きなことに対して愚直に取り組む姿勢はすごい。歩けなくなるかもしれないという思いが、真摯(しんし)に取り組もうというエネルギーにつながっている」という。 新型コロナが流行してからはネパールに行けずにいる。収まったら再び慧海がたどった道を歩きたいと考えている。目標は中国チベットルートの踏破だ。慧海がどこを歩いたかは完全には解明されておらず、専門家による調査が進んでいる。昨年10月に稲葉さんが暮らす大阪府千早赤阪村に研究者が集い、プロジェクトチームを結成。今後の活動の進め方などが話し合われた。 プロジェクトのメンバーで、慧海が通ったルートを調べている、日本山岳会元東海支部長の和田豊司さん(76)は「慧海が命をかけ仏の教えを求めてたどった道を実際にこの足で歩いてみたい。稲葉さんも好奇心旺盛で熱意をもって取り組んでいる。中国の政府の許可がおりればぜひ一緒に現地に行きたい」と話す。だが、中国政府は海外からの渡航を制限しており、簡単にはいかない。そして稲葉さんは今もリウマチの痛みと闘っている。 「無理って言うたらあかんねん。無理って言うたらほんまに無理になる。できると言い続けて行動していたらきっとできる」
稲葉さんの「自己評価シート」
■プロフィル 1973 大阪府東大阪市に生まれる 1992 リウマチを発症 1993 大阪市内の美容室で働き始める 2001 植村直己の足跡をたどって、米アラスカ州を旅行 2002 初めてのネパール旅行。カラパタールをトレッキング 2003 河口慧海の足跡をたどり、チベットのカイラス巡礼の旅に出る 2007 大阪山の会西北ネパール登山隊に参加し、カンテガ未踏峰(6060メートル)を登頂 2016 河口慧海がネパールからチベットに入るまでの全ルート500キロを踏破 2019 11月から翌年2月まで、ネパールのドルポで越冬 2021 植村直己冒険賞を受賞 これまでの人生は直感と行動力で乗り切ってきたという。これだと思うことにはとことんのめり込み、好きなことへの集中力はすさまじいという。何日もかけて山や峠を数十キロも歩くのに、体力は意外にも「2」。ネパールに行くまで登山の経験はなかったが、行きたい一心でトレーニングを積んできた。「めちゃくちゃ抜けた鈍くさい人間」と自己評価する。ドルポ越冬に出発する際、関西空港で現金を下ろすのを忘れた。所持金が2万円しかなく、首都カトマンズで現金を引き出そうとしたが、カードがATMに吸い込まれてしまった。「現地の知り合いにお金を借りて事なきを得たが、危うく遠征に行けなくなるところだった」 自然との調和…大阪・心斎橋で木、金、土曜日の週3回、「Dolpo-hair」という美容室を開く。ネパールに通うようになり、体にあまりよいとは言えないパーマ液や毛染め剤を使って外見の美しさを追求する自らの仕事に疑問を感じていた。最近、インドの植物由来の天然素材の染料「ヘナ」による毛染めと出合い、心の中で対立していた美容という仕事と調和がとれてきたという。 日本の山でネパール生活…2006年から、役行者(えんのぎょうじゃ)が修行したといわれる金剛山のふもと、大阪府千早赤阪村の築100年以上の古民家で暮らしている。「ネパールでの暮らしを日本でしたかった。自然に溶け込んだエネルギーの低い環境の中で暮らしたい」という。現在、かつて湯葉づくりの作業場だった自宅の一部を改装中。そこで今春から美容室を開くという。
朝日新聞社
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