Source:https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190528-00010002-nknatiogeo-life
エベレスト、ローツェ、マカルー、野心的で有言実行のニルマル・プルジャ氏
5月24日、ニルマル・プルジャ氏は、故郷ネパールにそびえる世界第5位の高峰、マカルー山への登頂を果たした。これだけを聞いても、たいしたニュースではないと感じるかもしれない。酸素ボンベをかつぎ、シェルパの助けを借り、ごく普通のルートを経由して山に登ったに過ぎないのだから。
ギャラリー:満員のエベレスト 写真11点
しかし、氏がそのわずか48時間前に、世界第4位の高峰であるローツェ山の山頂に立っていたと聞けば、そのすごさを実感できるだろう。しかもその12時間前には、彼はエベレストの山頂にいたのだ。
ニムズという通称で知られる彼はこの春、わずかひと月足らずの間に、世界で最も高く、最も危険な6峰(アンナプルナ、ダウラギリ、カンチェンジュンガ、エベレスト、ローツェ、マカルー)の登頂を成功させた。実に華々しい成果だ。しかしニムズ氏にとってこれは、自身のプロジェクトの第1段階を完了したに過ぎない。最終的な目標は、7カ月間で世界の8000メートル峰全14座の登頂を果たすという極めて野心的なものだ。
ギャラリー:満員のエベレスト 写真11点
しかし、氏がそのわずか48時間前に、世界第4位の高峰であるローツェ山の山頂に立っていたと聞けば、そのすごさを実感できるだろう。しかもその12時間前には、彼はエベレストの山頂にいたのだ。
ニムズという通称で知られる彼はこの春、わずかひと月足らずの間に、世界で最も高く、最も危険な6峰(アンナプルナ、ダウラギリ、カンチェンジュンガ、エベレスト、ローツェ、マカルー)の登頂を成功させた。実に華々しい成果だ。しかしニムズ氏にとってこれは、自身のプロジェクトの第1段階を完了したに過ぎない。最終的な目標は、7カ月間で世界の8000メートル峰全14座の登頂を果たすという極めて野心的なものだ。
「3日以内で登頂してみせよう」
伝説的な登山家ラインホルト・メスナーが、すべての8000メートル峰への登頂を世界で初めて成功させたのは1986年のこと(プロジェクトの開始は1970年)。それからの33年間で、約40人が14峰への登頂を果たしており、その大半が目標達成までに数十年を要している。現在の最速記録は、ポーランド人登山家イェジ・ククチカによる7年11カ月と14日だ。
ニムズ氏の計画が順調に進めば、10月までに目標を達成することも可能だろう。それが偉業であることは間違いないが、登山界の保守的な派閥からは、ある程度の反発があることも予想される。エリート登山家の中には、彼のスタンドプレー的なスタイルや、世間の注目を集めることを厭わない態度を快く思わない人もいるからだ。
メスナーや、その後8000メートル峰への登頂を成功させた登山家たちは、どのように山を登ったかということが、登頂したことと同じくらい重要だと主張していた。彼らの多くが酸素ボンベの使用も、ロープをあらかじめ張っておいてもらうことも、シェルパに案内してもらったり、予備の装備を運んでもらったりすることも忌避していた。登山家たるものは高度なルートにチャレンジし、できるかぎり新しいルートを確立すべきだとも考えていた。そして登頂に成功した場合でも、それについてメディアに向かってべらべらとしゃべるのは、はしたない行為とされていた。
ニムズ氏はしかし、現代の便利なやり方や道具を存分に活用して、まったく悪びれるところがない。彼は酸素ボンベを担がせたシェルパを先に登らせて高地のキャンプで待機させたり、インスタグラムにヒマラヤ登山のドラマチックな写真を次々にアップしたりしている。ニムズ氏はまた、プライドの高さも隠そうとしない。たとえばエベレスト登頂に出発する前には、こんな投稿をしている。
「……僕は世界で最も危険で、登る人もあまりいない3つの山に3週間足らずで登ってみせ、その間、デスゾーンよりも上で予定外の救助活動を2度行った。……そして今度は、エベレスト、ローツェ、マカルーに3日以内で登頂してみせよう。自分が持つ世界記録を破るつもりだ」
不遜な物言いをするだけでなく、ニムズ氏はどうやら、口にしたことを現実にするだけの実力を備えているようだ。これまでのところ、彼は自らの言葉通りに6つの山を制覇し、同行したシェルパたちからの尊敬を集め、熱心なファンを獲得している。現在、ヒマラヤにはアジアからかつてないほどの人が押し寄せているが、そうしたアジア人登山家の中に、特にファンが多いという。
「彼は歯に衣を着せずに率直に話をします」。ニムズ氏が今年最初に登った8000メートル峰であるアンナプルナで、偶然チームを組むことになったカナダ人登山家のドン・ボウイ氏はそう語っている。「それでいて、人に会えばすぐににっこりと笑顔を見せる、とても親しみやすい人です。常に情熱に溢れ、その熱意が周りにいる人たちにも伝染して活気を生み出します。あれほど嘘偽りがないと感じさせる人は、そうはいません」
ニムズ氏の計画が順調に進めば、10月までに目標を達成することも可能だろう。それが偉業であることは間違いないが、登山界の保守的な派閥からは、ある程度の反発があることも予想される。エリート登山家の中には、彼のスタンドプレー的なスタイルや、世間の注目を集めることを厭わない態度を快く思わない人もいるからだ。
メスナーや、その後8000メートル峰への登頂を成功させた登山家たちは、どのように山を登ったかということが、登頂したことと同じくらい重要だと主張していた。彼らの多くが酸素ボンベの使用も、ロープをあらかじめ張っておいてもらうことも、シェルパに案内してもらったり、予備の装備を運んでもらったりすることも忌避していた。登山家たるものは高度なルートにチャレンジし、できるかぎり新しいルートを確立すべきだとも考えていた。そして登頂に成功した場合でも、それについてメディアに向かってべらべらとしゃべるのは、はしたない行為とされていた。
ニムズ氏はしかし、現代の便利なやり方や道具を存分に活用して、まったく悪びれるところがない。彼は酸素ボンベを担がせたシェルパを先に登らせて高地のキャンプで待機させたり、インスタグラムにヒマラヤ登山のドラマチックな写真を次々にアップしたりしている。ニムズ氏はまた、プライドの高さも隠そうとしない。たとえばエベレスト登頂に出発する前には、こんな投稿をしている。
「……僕は世界で最も危険で、登る人もあまりいない3つの山に3週間足らずで登ってみせ、その間、デスゾーンよりも上で予定外の救助活動を2度行った。……そして今度は、エベレスト、ローツェ、マカルーに3日以内で登頂してみせよう。自分が持つ世界記録を破るつもりだ」
不遜な物言いをするだけでなく、ニムズ氏はどうやら、口にしたことを現実にするだけの実力を備えているようだ。これまでのところ、彼は自らの言葉通りに6つの山を制覇し、同行したシェルパたちからの尊敬を集め、熱心なファンを獲得している。現在、ヒマラヤにはアジアからかつてないほどの人が押し寄せているが、そうしたアジア人登山家の中に、特にファンが多いという。
「彼は歯に衣を着せずに率直に話をします」。ニムズ氏が今年最初に登った8000メートル峰であるアンナプルナで、偶然チームを組むことになったカナダ人登山家のドン・ボウイ氏はそう語っている。「それでいて、人に会えばすぐににっこりと笑顔を見せる、とても親しみやすい人です。常に情熱に溢れ、その熱意が周りにいる人たちにも伝染して活気を生み出します。あれほど嘘偽りがないと感じさせる人は、そうはいません」
救助するのは、山に登るよりずっと難しい
エベレスト山頂を目指してベースキャンプを出発するおよそ12時間前、ニムズ氏は自身のテントにわたしを迎え入れ、コーヒーをいれてくれた。
「調子はどう」。気さくな調子で彼は尋ねた。そしてこちらが答える前に、「僕は上々だよ、ブラザー」と続けた。
身長は170センチほどと、ソーシャルメディアでの英雄的な活躍からイメージするよりも低く、わずかに労働者階級のアクセントがある英語を話す。背後ではメディアチームがラップトップを叩いたり、カメラをいじったりとせわしない作業が続く中で、ゆったりとくつろいだ様子だ。
「これまでのところ、僕のプロジェクトで最も重大な出来事と言えるのは救助活動だ。あれは予定外だった。ほかはすべて順調だよ。8450メートルから人を救助するのは、山に登るよりずっと難しい」
ニムズ氏はそう言ったが、このインタビューの直前に彼が成し遂げた3つの山(アンナプルナ、ダウラギリ、カンチェンジュンガ)の登頂については、それがどんな状況下で行われたものだとしても、すばらしい実績であると誰もが認めるだろう。しかもニムズ氏の登頂時の状況は、決して理想的と呼べるものではなかった。たとえばアンナプルナでは、彼が登頂した同日に、中国人医師のチン氏が行方不明になった。
「僕らがベースキャンプに戻ったのは午後10時頃だ。待っていた友人たちがウイスキーをくれ、午前3時30分頃まで飲んでいた。午前6時にヘリがやってきて、あの医師が生存していると言う。だから僕はチームを集めて、ロープでキャンプ3に降ろしてもらった。そこから医師がいるところまでは通常、16時間以上かかる。僕らはこれを4時間でやった」
チン氏は無事カトマンズへ運ばれ、その後シンガポールへ移送されたものの、数日後にそこで亡くなった。
アンナプルナから、ニムズ氏はヘリコプターでダウラギリに向かったが、悪天候のせいで状況はさらに悪化した。「ダウラギリ登頂は午後6時30分頃だった。あれほどひどい条件の中で登ったことはないくらいだ。実に苦しかった」。ニムズ氏と4人のネパール人のチームは、暗い中をベースキャンプまで下り、翌朝やってきたヘリコプターでカトマンズまで移動した。
「カトマンズでひと晩過ごしたが、まるで休めなかったよ。大勢の友人たちがビールを飲みたがっていたからね」。ニムズ氏はウィンクをしてそう言った。「そして次の日、僕らはカンチェンジュンガに向かった」
カンチェンジュンガでは、ニムズ氏は登山パートナーのひとりであるシェルパと一緒に午後1時にベースキャンプを出発して一気に頂上を目指し、翌日の午前11時に登頂を果たした。途中で、ふたり目のサポート・シェルパとも合流していた。三人で山を下りていくと、インド人登山家のバイディヤ氏とシェルパのダワ氏が、8450メートル地点で酸素ボンベが尽きて立ち往生しているところに行き合った。ニムズ氏らはふたりに予備の酸素ボンベを渡し、手を貸して一緒に山を下り始めたが、途中でまた別のインド人登山家カラル氏が、酸素ボンベがなくなり、仲間から置き去りにされているのを発見した。ニムズ氏は彼に、自分が背負っていた酸素ボンベを譲った。
「僕らは助けを求めることにして、何度も何度も呼びかけた。レスキューを送ってくれ、バックアップを頼むってね。先方はすぐに人を送るからってずっと言い続けていた。7時にはあたりが暗くなって、それでもヘッドライトのひとつも見えない」
カラル氏は、ニムズ氏が与えた酸素が底をついた後、ほどなく亡くなった。チームはバイディヤ氏に手を貸しながらさらに山を下りたが、やがてニムズ氏のシェルパも次々に高地脳浮腫の兆候を見せ始めた。
バイディヤ氏は最終的に、何十人もの人が野営をしていたキャンプ4まで200メートル足らずのところで亡くなった。それから一週間後、キャンプでインタビューに答えるニムズ氏が、その出来事をまだ引きずっていることは明らかだった。「彼らは自分たちを高高度のエキスパートだとか、ソロクライマーだとか呼んでいるが、だれひとり助けには来なかった……いちばん悲しいのは、彼らが嘘をつき続けたことだ。3人そっちに向かわせると言っていたのに。正確な情報を伝えないというのは、大きな問題だ」
残念な結果にはなったものの、ニムズ氏は、カンチェンジュンガで起こったような出来事は、自身の登山スタイルの正しさを証明するものだととらえている。「もし僕が酸素なしで登っていたなら、彼らに酸素をあげられなかっただろう」
「調子はどう」。気さくな調子で彼は尋ねた。そしてこちらが答える前に、「僕は上々だよ、ブラザー」と続けた。
身長は170センチほどと、ソーシャルメディアでの英雄的な活躍からイメージするよりも低く、わずかに労働者階級のアクセントがある英語を話す。背後ではメディアチームがラップトップを叩いたり、カメラをいじったりとせわしない作業が続く中で、ゆったりとくつろいだ様子だ。
「これまでのところ、僕のプロジェクトで最も重大な出来事と言えるのは救助活動だ。あれは予定外だった。ほかはすべて順調だよ。8450メートルから人を救助するのは、山に登るよりずっと難しい」
ニムズ氏はそう言ったが、このインタビューの直前に彼が成し遂げた3つの山(アンナプルナ、ダウラギリ、カンチェンジュンガ)の登頂については、それがどんな状況下で行われたものだとしても、すばらしい実績であると誰もが認めるだろう。しかもニムズ氏の登頂時の状況は、決して理想的と呼べるものではなかった。たとえばアンナプルナでは、彼が登頂した同日に、中国人医師のチン氏が行方不明になった。
「僕らがベースキャンプに戻ったのは午後10時頃だ。待っていた友人たちがウイスキーをくれ、午前3時30分頃まで飲んでいた。午前6時にヘリがやってきて、あの医師が生存していると言う。だから僕はチームを集めて、ロープでキャンプ3に降ろしてもらった。そこから医師がいるところまでは通常、16時間以上かかる。僕らはこれを4時間でやった」
チン氏は無事カトマンズへ運ばれ、その後シンガポールへ移送されたものの、数日後にそこで亡くなった。
アンナプルナから、ニムズ氏はヘリコプターでダウラギリに向かったが、悪天候のせいで状況はさらに悪化した。「ダウラギリ登頂は午後6時30分頃だった。あれほどひどい条件の中で登ったことはないくらいだ。実に苦しかった」。ニムズ氏と4人のネパール人のチームは、暗い中をベースキャンプまで下り、翌朝やってきたヘリコプターでカトマンズまで移動した。
「カトマンズでひと晩過ごしたが、まるで休めなかったよ。大勢の友人たちがビールを飲みたがっていたからね」。ニムズ氏はウィンクをしてそう言った。「そして次の日、僕らはカンチェンジュンガに向かった」
カンチェンジュンガでは、ニムズ氏は登山パートナーのひとりであるシェルパと一緒に午後1時にベースキャンプを出発して一気に頂上を目指し、翌日の午前11時に登頂を果たした。途中で、ふたり目のサポート・シェルパとも合流していた。三人で山を下りていくと、インド人登山家のバイディヤ氏とシェルパのダワ氏が、8450メートル地点で酸素ボンベが尽きて立ち往生しているところに行き合った。ニムズ氏らはふたりに予備の酸素ボンベを渡し、手を貸して一緒に山を下り始めたが、途中でまた別のインド人登山家カラル氏が、酸素ボンベがなくなり、仲間から置き去りにされているのを発見した。ニムズ氏は彼に、自分が背負っていた酸素ボンベを譲った。
「僕らは助けを求めることにして、何度も何度も呼びかけた。レスキューを送ってくれ、バックアップを頼むってね。先方はすぐに人を送るからってずっと言い続けていた。7時にはあたりが暗くなって、それでもヘッドライトのひとつも見えない」
カラル氏は、ニムズ氏が与えた酸素が底をついた後、ほどなく亡くなった。チームはバイディヤ氏に手を貸しながらさらに山を下りたが、やがてニムズ氏のシェルパも次々に高地脳浮腫の兆候を見せ始めた。
バイディヤ氏は最終的に、何十人もの人が野営をしていたキャンプ4まで200メートル足らずのところで亡くなった。それから一週間後、キャンプでインタビューに答えるニムズ氏が、その出来事をまだ引きずっていることは明らかだった。「彼らは自分たちを高高度のエキスパートだとか、ソロクライマーだとか呼んでいるが、だれひとり助けには来なかった……いちばん悲しいのは、彼らが嘘をつき続けたことだ。3人そっちに向かわせると言っていたのに。正確な情報を伝えないというのは、大きな問題だ」
残念な結果にはなったものの、ニムズ氏は、カンチェンジュンガで起こったような出来事は、自身の登山スタイルの正しさを証明するものだととらえている。「もし僕が酸素なしで登っていたなら、彼らに酸素をあげられなかっただろう」
力と知恵で
ニムズ氏は、今はまだ登山界で名の知られた存在というわけではない。それもそのはず、彼はつい最近まで、正規兵として英国政府に雇われていたのだ。
「僕はネパールで生まれ、グルカ兵の中で育ち、SBS(英海兵隊特殊舟艇部隊)の一員になった」
ニムズ氏は18歳でグルカ兵となった。植民地時代の名残であるグルカ兵は、ネパールで招集され、英軍に所属して戦う戦闘集団だ。グルカ兵として6年間従軍した後、ニムズ氏はさらに厳しい6カ月間の試験をパスして、英特殊部隊のエリートであるSBSに入隊した。SBSのモットーは「力と知恵で」だ。
「特殊部隊で学んだ最も大切なことは、意思決定プロセスと、諦めないという意志だ。兵士は、ある特定のマインドセットを保つことを求められる。僕はそれをポジティブなマインドセットと呼んでいる」
「僕はネパールで生まれ、グルカ兵の中で育ち、SBS(英海兵隊特殊舟艇部隊)の一員になった」
ニムズ氏は18歳でグルカ兵となった。植民地時代の名残であるグルカ兵は、ネパールで招集され、英軍に所属して戦う戦闘集団だ。グルカ兵として6年間従軍した後、ニムズ氏はさらに厳しい6カ月間の試験をパスして、英特殊部隊のエリートであるSBSに入隊した。SBSのモットーは「力と知恵で」だ。
「特殊部隊で学んだ最も大切なことは、意思決定プロセスと、諦めないという意志だ。兵士は、ある特定のマインドセットを保つことを求められる。僕はそれをポジティブなマインドセットと呼んでいる」
兵士から登山家へ
ニムズ氏は重大な決意のもとに、軍を離れてプロの登山家へと転身した。
「英国軍には16年間在籍した。あと6年もいれば、満額の恩給が受け取れるはずだった。50万ポンド(約6900万円)くらいにはなっただろう……だけど僕が働くのはお金のためじゃない」とニムズ氏は言う。「仕事だからやるんじゃない。仕事でやるには危険すぎる。僕は恩給をあきらめて、このプロジェクトのために仕事をやめたんだ」
ニムズ氏は、自身の8000メートル峰へのチャレンジを「プロジェクト・ポッシブル」と名付けた。当初予定していたスポンサー話が頓挫した後、ニムズ氏は自ら資金調達に奔走した。「知り合いに片っ端からメールを送って、10週間でなんとか25万ドル(約2700万円)を調達したが、これは相当な金額だ。あんなに大変なことをやったのは初めてだよ」。このとき集めた25万ドルは、ネパールの6峰に登頂する分にしかならなかった。パキスタンでの第2段階は6月7日に開始される予定だが、資金は30万ドル(約3300万円)不足している。「今後どうするか決めるまでには、まだ10日ある」と、ニムズ氏は言った。
「プロジェクト・ポッシブル」が資金繰りに苦しんでいるのは、無理もない話だ。アスリートは通常、数十万ドルの支援を得るために、何年もかけて人間関係を築いてスポンサーを獲得するが、ニムズ氏が登山家として活動を始めたのはわずか6カ月前なのだ。そして、たとえ奇跡的に資金を調達できたとしても、彼がパキスタンの8000メートル峰5座の登頂に成功するという保証はない。
しかし、次の登山が成功しようが失敗に終わろうが、ニムズ氏はすでにあることを証明している。それは、彼がだれにも似ていない、個性的な人物であるということだ。
ポジティブなニムズ氏が、計画の続行をためらうことはない。「僕はこのために家をもう一度抵当に入れた。このために仕事も捨てた。自分が持っているものはすべて賭けた。もしうまくいかなければ、自分にこう言うよ。『ニムズ、おまえは自分に出せるものを100%出した。それが、ひとりの人間が人生で賭けられるものすべてだ』ってね。僕はそれで満足だ」
「英国軍には16年間在籍した。あと6年もいれば、満額の恩給が受け取れるはずだった。50万ポンド(約6900万円)くらいにはなっただろう……だけど僕が働くのはお金のためじゃない」とニムズ氏は言う。「仕事だからやるんじゃない。仕事でやるには危険すぎる。僕は恩給をあきらめて、このプロジェクトのために仕事をやめたんだ」
ニムズ氏は、自身の8000メートル峰へのチャレンジを「プロジェクト・ポッシブル」と名付けた。当初予定していたスポンサー話が頓挫した後、ニムズ氏は自ら資金調達に奔走した。「知り合いに片っ端からメールを送って、10週間でなんとか25万ドル(約2700万円)を調達したが、これは相当な金額だ。あんなに大変なことをやったのは初めてだよ」。このとき集めた25万ドルは、ネパールの6峰に登頂する分にしかならなかった。パキスタンでの第2段階は6月7日に開始される予定だが、資金は30万ドル(約3300万円)不足している。「今後どうするか決めるまでには、まだ10日ある」と、ニムズ氏は言った。
「プロジェクト・ポッシブル」が資金繰りに苦しんでいるのは、無理もない話だ。アスリートは通常、数十万ドルの支援を得るために、何年もかけて人間関係を築いてスポンサーを獲得するが、ニムズ氏が登山家として活動を始めたのはわずか6カ月前なのだ。そして、たとえ奇跡的に資金を調達できたとしても、彼がパキスタンの8000メートル峰5座の登頂に成功するという保証はない。
しかし、次の登山が成功しようが失敗に終わろうが、ニムズ氏はすでにあることを証明している。それは、彼がだれにも似ていない、個性的な人物であるということだ。
ポジティブなニムズ氏が、計画の続行をためらうことはない。「僕はこのために家をもう一度抵当に入れた。このために仕事も捨てた。自分が持っているものはすべて賭けた。もしうまくいかなければ、自分にこう言うよ。『ニムズ、おまえは自分に出せるものを100%出した。それが、ひとりの人間が人生で賭けられるものすべてだ』ってね。僕はそれで満足だ」
文=FREDDIE WILKINSON/訳=北村京子
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