2023年2月27日月曜日

インドで酒を売って儲け、吸って笑って過ごした。ネパールから再びインドへ──連載:マーク・パンサーの父、2CVフルゴネットで世界一周の旅 Vol.13

Source:https://www.gqjapan.jp/lifestyle/article/20230218-la-glandouille 

58年前の1965年10月15日に、2人のフランス人の若者がコルシカ島からシトロエン2CVフルゴネットで世界一周の旅に出た。予定では、ヨーロッパから中東を巡り、ネパールを目指し、さらに日本を経由してオーストラリアに渡り、そこからアメリカ大陸に向かうつもりだった。しかし、若者のうちのひとりが東京で日本人女性と結婚し、男の子も生まれ、家庭を持ったので彼の世界一周の旅は半分で終わった。もうひとりは旅を続けたらしいが、詳細はわからない。2CVフルゴネットのその後も不明だ。しかし、若者たちは多くの写真を残し、『La GLANDOUILLE』という本まで自費出版していた。

2023年2月18日、Googleニュースより

新年を迎えて1週間経っても、zuzuに関する連絡は何もなかった。カトマンズには日常が戻りつつあった。

<1967年1月8日、山に散歩に行った。お寺がきれいだった。帰り道に火葬に出くわした。女性が燃やされていた。二人の男性が泣き叫んでいたが、他の家族はなぜか笑っていた。死がうれしかったのだろうか? 太鼓やシンバルなどで賑やかな音楽が奏でられ、その周りには多くの人が集っていた。最後の炎が消えるまで、みんなそこに留まっていた。炎が消える最後の瞬間が、女性の最期なのだろう>

いつ、zuzuを引き取れるかわからないので、インドに滞在する時間が長くなることを考えて、ポールさんたちは大使館に赴いてビザの延長を申請しようとしたが、それは不可能だと言われた。ただし、新しいビザを申請すれば、その分、滞在はできるとも告げられた。

<1月10日、すぐにzuzuの修理に取り掛かれるよう、動き出す準備を始めた。ネパール人は笑顔がきれいで、山や寺院なども美しい。写真を撮っておこうとカメラを構えると、多くの子供たちが集まって、なかなかうまく撮れなかった。夜に、globeに行ってみた。ドイツ人、ノルウェー人、イギリス人、インド人のビートニクたちに会って話をした。多用な言葉だけ、英語を勉強しないとこういう時に楽しめないし、情報も交換できない。「カルカッタで会おう!」と約束し合った。

12日、トラックの荷台に乗って、カトマンズを出発した。一気にインドに入国するのかと思ったが、国境の手前のヘタンダの町で夜を明かした。もう1台のトラックが来て、そちらにもビートニクたちが乗っていた。みんな吸って、笑っている。荷台で眠った>

翌13日、ポールさんたちはアムレクガンジでトラックを降り、警察署に出向く。さらに、ビルガンジの裁判所でzuzuを動かして構わないという許可を得た。zuzuを引き取り、夜はキャンプ。火を起こして、ボンプという料理を作って食べた。

<14〜15日、ずっとzuzuを直す。サスペンションをボディから外し、大きく凹んだボディを二人でトンカチで叩いて、平らになるよう直した>

シトロエン2CVフルゴネットの荷台部分のボディは、トタン屋根のような薄い鉄板でできているので、叩けばなんとかはなる。ただ、写真を見ると、真ん中の下半分が裂けて落ち掛かっているところは、溶接しない限り荷台の荷物が中から地面に落ちてしまうだろう。

<サスペンションはアームとブレーキをバラバラにし、曲がったところを叩いて組み直した。幸いにも、ブレーキにダメージはなかった>

旅のノートや自費出版本『La GLANDOUILLE』の記述を読んだり、直接、ポールさんに訊ねたりしても、zuzuの構造のシンプルさに驚かされる。現代のクルマのように複雑ではないから、修理もふたりでできたのだろう。

「モーリスは、もともとコルシカで大きな船で働いていたり、工場で設計士として勤めていたりした経験があるから、メカニックのプロなんだ。zuzuの整備マニュアルは完璧に理解できて、構造と修理方法は知り尽くしていた。オレはいつもそれを手伝っていた」

zuzuの構造がシンプルであるということは、新車に近いような状態に完璧に直すことができなかったとしても、だましだまし走らせることができたのだろう。現代のクルマは複雑だから、完璧に近いほどに直らないと発進することすらもできなかったりする。zuzuに限らず1960年代のクルマは仕組みがアナログだったのに対して、現代のクルマはデジタルを多用しているという違いも大きい。

zuzuは壊れやすいかもしれないが、直しやすくもあるのに対して、現代のクルマは壊れにくく、運転しやすく、速いかもしれないが、壊れたら完璧に直さない限り1mmも動かない、と形容することもできる。

<16時に国境を通過し、インドに戻った。19時にガソリンがなくなり、警察署の前にzuzuをとめて、眠った>

インドに戻ったポールさんとモーリスは、南東に進み、カルカッタ(現在のコルカタ)を目指した。地図で直線距離を測っただけでも、1000km近くある。そんな長距離を、zuzuは走れるのだろうか?

インドで酒を売って儲け、吸って笑って過ごした。ネパールから再びインドへ──連載:マーク・パンサーの父、2CVフルゴネットで世界一周の旅 Vol.13

<ガタガタ道が多くて、クルマごと壊れてしまいそうだった。直したとはいえ、サスペンションがほとんど機能していなかったので、zuzuを引き摺るようにして走った>

カルカッタを目指したのは理由があった。イエズス会の施設があり、そこに宿泊できるという情報をカトマンズにいる時に共有していたからだ。

<案の定、ジャンとミシェル、ジャックとジョージたちがいた。彼らは、彼らのクルマを運転してひと足先にたどり着いていたのだ>

カルカッタに1週間滞在した。大都市なので、映画館で映画も久しぶりに鑑賞することができた。

<『東京オリンピア』は最高に良かった。クストーの『太陽のない世界』は最低だ。大根映画だ>

もちろん、『東京オリンピア』は市川崑が監督した『東京オリンピック』(1965年)のことだ。英語タイトルが『Tokyo Olympiad』だった。『太陽のない世界』は、フランスの海洋学者、ジャック・イブ・クストーが映画監督のルイ・マルと共同で監督を務めたドキュメンタリー映画『沈黙の世界』(1956年)のことだろう。

カルカッタの次の目的地は、ベンガル湾沿いに南下していくマドラス(現在のチェンナイ)だ。2000km近くも離れている。

「インドでは、1泊5ルピーぐらい払うと、警察署内に泊まることができたんだ。お寺は、ヒンドゥ教徒でないと泊まれなかった」

マドラスもインド有数の大都市だ。ポールさんたちは、到着後しばらくしてから、いくつかの大学で“ビジネス”を開始した。

<500ルピーを稼いだ。1ルピーでバナナ30本買えたから、500ルピーはちょっとした金額だ>

どうやって稼いだのだろうか?

「当時のインドは、地域によって禁酒地域と飲酒地域があった。認められている隣のポンディシェリで仕入れてきて、それを禁止地域のマドラスの大学で売ったのだ。余裕ができたので、カタマランのヨットにも乗った。モーリスもオレも久々のセーリングだったので、楽しかった。マドラスには良い思い出ばかりが残っている」

ポンディシェリはベンガル湾沿いの、マドラスよりも南の町だ。1954年にインドに返還されるまで1673年からフランス領だった。インドがイギリス領だった期間も含め280年近くもフランス領だったので、当然、多くのフランス人が居住し、フランス語が使われ、フランスの文化が浸透していた。

レバノンのベイルートと同じように、遠くフランスからやって来たポールさんたちのような旅行者にとっては、砂漠のオアシスのような存在だ。

ポンディシェリには15日間の滞在だったが、ポンディシェリでの体験が、のちのポールさんと家族たちの人生に大きな影響を与えることになる。もちろん、1967年のポールさんはそのことを知るよしもない。

PROFILE

金子浩久

モータリングライター

本文中のユーラシア横断は『ユーラシア横断1万5000km』として、もうひとつのライフワークであるクルマのオーナールポルタージュ『10年10万kmストーリー』シリーズとして出版されている。

文・金子浩久 取材協力・大野貴幸

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