Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/5598cc3eb13c54826bd589a6cf9d27c63585ef8a
日本に暮らす外国人は右肩上がりで増え続け、昨年6月には358万人と過去最多を更新。外国人が増えるにつれて、日本サッカーの風景が少しずつ変わり始めた。週末のたびに、郊外のフットサル場や河川敷のグラウンドなどで外国人コミュニティのサッカー大会が盛んに行なわれているのだ。 【写真】3本指でミャンマー国軍に抗議するカレン族…元ミャンマー代表の亡命GKも参加したチャリティフットサル大会の模様をすべて見る! 愛知県を中心とした東海地方では、ブラジルやペルーといった南米人コミュニティの大会が頻繁に開かれ、本場仕込みの激しく抜け目のないプレーを見ることができる。 ゲームの質では南米勢だが、規模はベトナム。 中国人に次ぐ60万人が日本に暮らすベトナム人は、若い世代が多いこともあり、毎週のように各地でフットサル大会を開催している。日本ベトナム国際交流機構(FAVIJA)が毎年開催するFAVIJAカップは、全国10地区で予選が行なわれ、500を超えるチームが参加する巨大なトーナメントだ。
ミャンマー人のフットサル大会
年の瀬も押し迫った12月29日、埼玉県三郷市のフットサル場でミャンマー人のフットサル大会が行なわれた。参加したのは山梨県も含む、関東で活動する52チーム。グループリーグから決勝まで実に12時間ぶっ続けで160試合を消化し、フェアネス群馬がチャンピオンとなった。 一般的に外国人コミュニティのサッカー大会は、以下の形式で行なわれることが多い。 特定のチームが主催者となってスポンサーを集め、会場や審判を予約。トロフィやメダルを用意する。個人賞もあり、MVPにはバロンドール、得点王にはゴールデンブーツ、さらには最優秀キーパーにはゴールデングローブが贈られる。 参加チームは参加費を払い、その多くは賞金に充てられる。私がいままで観戦した最高優勝賞金額はネパール大会の40万円だが、南米界隈では100万円大会も開催され、恐ろしく白熱するらしい。レッドカードやイエローカードに罰金を科す大会も多いが、それは乱闘やケガを防ぐためだ。 またベトナムやネパールの大会では、故郷の家族や友人たちに元気な姿を届けようと、SNSを通じてゲームの様子が実況される。会場にはエスニック屋台が出ることも多く、日本人の舌に配慮しない本場の味を楽しむことができる。 三郷でのミャンマー大会は、1チームの参加費が3万円。これだけで150万円が集まった。だが、優勝チームや個人タイトル受賞者に賞金が贈られることはなかった。実費を除いた収益のすべてが、内戦が続く祖国への支援に充てられたからだ。
クーデター直後から国軍への抵抗運動
「2021年のクーデター以降、私たちの国では戦争が激しくなり、今回のお金は被害の大きな北部カチン州の避難民の人々に届けることになっています」とスタッフが教えてくれた。 ミャンマーでは、21年2月1日にクーデターが発生。前年の総選挙の結果を無効として国軍が全権を掌握すると、市民による抵抗運動が広がり、内戦状態に突入する。国軍の弾圧や攻撃による死者は5100人を超え、戦火はいまもやむ気配はない。 日本には11万人ほどのミャンマー人が暮らしているが、多くの人たちがクーデター直後からデモや募金を通じて国軍への抵抗を続けてきた。 実はサッカー大会も民主化運動の一環であり、チャリティが行なわれるのは三郷大会が初めてではない。「もともとミャンマー人は各地でサッカー大会をやっていましたが、クーデター後、祖国を支援するためにチャリティ大会を行なうようになりました。みんな国を思う気持ちが強いので、参加チームは大幅に増えています。関東では1、2カ月に一度開催していますが、名古屋や大阪でも仲間たちが大会を行なっています」と、こちらもスタッフが教えてくれた。
カチン族、カレン族の声
ギャラリーも含めて総勢800人近いミャンマー人が集結したフットサル大会には、さまざまな背景を持つ人たちがいた。彼らの声を聞いてほしい。 「ぼくは今日、ボランティアで大会を手伝いに来ました。来日したのは20歳のとき。技能実習生として来日して、もう8年が経ちます。クーデターのおかげで祖国に帰ることができなくて、亡くなった母に別れを告げられなかったのが心残りです」(カチン族の男性28歳) 「ぼくは21年に帰国するつもりでいましたが、突然クーデターが起きて帰れなくなってしまいました。ミャンマー南部カレン州出身のぼくには、アメリカで暮らす父と母がいますが、兄はまだカレン州にいて、彼の村は国軍の空爆によって破壊されてしまいました。実はもうすぐ故郷に帰ろうと思っています。(ミャンマー最大の都市)ヤンゴンからカレン州に向かうのは難しいので、タイ国境から山岳地帯を歩いてカレンに入るつもりです。国境地帯も国軍のドローンが飛んでいるので気をつけないといけないですが、それでも故郷に帰りたい」(カレン族の男性)
元ミャンマー代表GKも参加
フットサル大会には20代から30代の若い世代が目立つが、日本滞在が30年を越える年配の姿もあった。1988年に始まった『8888民主化運動』に身を投じたことで命を狙われ、日本に逃れたハンセインさんだ。彼は通訳としてコミュニティの人たちをサポートしながら、2000年にミャンマー・フットボールクラブ(MFC)を設立。このチームから、同胞たちの大会を支える在日ミャンマー人サッカー協会が生まれた。 「ぼくは日本に逃げてきたとき、2、3年で祖国に帰れるだろうと思っていました。でも現実は30年以上、ミャンマーに帰ることができずにいる。今日ここにいる若い人たちは、ぼくが来日したときには生まれてもいなかった人がほとんどです。クーデター前の民主化の時代を知る彼らは、いま戦わないとミャンマーの未来はないと考えて戦っています」 そう言ってハンセインさんが視線を向けた先には、明らかに周りとは体格や動きの違うキーパーの姿があった。ピエリアンアウンさん。2021年5月28日のワールドカップ予選で来日。国歌斉唱の際、3本指を上げることで国軍への抗議の意思を示し、日本に保護された元代表選手だ。彼は友人たちのチームに助っ人として参加。上位進出はならなかったが、セーブにキックにドリブルと随所に違いを見せつけた。 「ぼくは日本に亡命することになりましたが、それが他の国であったとしても同じ行動をしていたと思います」
「国のためにできることはすべてやろう」
そう語るピエリアンアウンさんは、東京都内、日暮里駅前のミャンマーレストランSRR(スプリング・レボリューション・レストラン)の厨房に立ちながら、週末になるとハンセインさんのチーム、MFCに顔を出している。ちなみにSRRも、収益のほとんどを戦禍に苦しむ同胞の支援に充てている。 「日本に暮らして3年になりますが、いつも国が平和になることだけを考えて過ごしています。日本ではサッカーを通じて多くの仲間ができて、今日もとても楽しい一日になりました。ここにいるミャンマーの人たちがそうであるように、ぼくは国のためにできることはすべてやろうと思っています」 元代表選手の淡々とした口ぶりから、むしろ戦いをあきらめない意志の強さが感じられた。大会翌日、在日ミャンマー人サッカー連盟は1月26日に新年最初のチャリティ大会を開催することを発表。52チームの参加枠は案の定、あっという間に埋まってしまった。
(「Number Ex」熊崎敬 = 文)
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