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街には多種多様な石材が使われていますが、これらの石材は、どのように形成されてきたのでしょうか。 【画像】デパートの壁が化石だらけ…著者撮影オリジナル写真で見てみる そこで今回、地質学者の西本昌司氏(愛知大学教授)に、「街の石と地球の歴史」をテーマに書いていただきました。 全3回にわたるシリーズ、第1回目のテーマは「街なかで見つけられる化石」です。 プロが教える、街なかでアンモナイトを見つけるコツとは……? 早速見ていきましょう。
街なかにアンモナイトは珍しくない
街の中で化石が見つかるということは広く認知されてきたようだ。SNSでも百貨店や地下街などの壁の石材から見つけた化石の写真を見かけることも増えてきたし、「街化石」なるキーワードが使われるようにもなっている。 「街化石」の中でも、最もポピュラーなのはアンモナイトだろう。アンモナイトの化石が館内にあることをわざわざ表示している百貨店もあるくらいだから、一度は目にしたという方も多いはずだ。 アンモナイトは約4億年前(古生代シルル紀)に現れ、中生代を通じて繁栄し、約6600万年前(中生代白亜紀末)に恐竜などとともに絶滅した軟体動物頭足類の1グループ。よく間違えられるのだが、巻貝のなかまではなく、イカやタコのなかまである。 渦巻き模様のアンモナイトは目につきやすいので、一度、実物を見れば「ああ、これか」とすぐに認識できるのではないだろうか。しかし、アンモナイトの化石は渦巻き模様とは限らない。むしろ、渦巻き模様でないアンモナイトの方が多いはずだ。というのも、薄いアンモナイトの殻のちょうど中心を通るように石材を切断するなんて狙ってできることではなく、むしろ渦巻き模様とはならなかった切り口の方が多いと考えられるからである。 そんなアンモナイト化石も、たくさん観察しているうちに、次々と見つかるようになってくるのだから、化石探しはクセになる。写真を撮ってシェアしたくなる。ということで、SNSとの相性も良いから「街化石」の象徴のような存在になっているのではないか。 街なかでアンモナイト化石がそんなにありふれているのなら、自分でもアンモナイトで見つけてみたい。そう思う方もいらっしゃるのではないかと思う。 では、アンモナイトを簡単に見つけるにはどうしたら良いだろう? それは、アンモナイトが見つかりやすい石材を知っておくことだ。そうすれば、該当する石材を見かけた途端に、アンモナイト捜索モードに入れる。要するに、アンモナイトをよく含んでいる石材を知っておくと結構簡単に見つけることができるということである。
アンモナイトはどうやって探す?
アンモナイトの化石が見つかる石材は、“大理石”と呼ばれるタイプである。ただし、ここでいう“大理石”とは、“石材業界”の“大理石”であって、“岩石業界”での“大理石”ではない。少々ややこしい話だが、地質をかじっている人ほど違和感を覚えやすいので説明しておこう。 “岩石業界”の“大理石”とは結晶質石灰岩のことだが、“石材業界”の“大理石”とは単に内装用石材という意味合いが強く、結晶質石灰岩だけでなく石灰岩や苦灰岩、そして蛇紋岩なども含む。業界が違えば、同じ石の名称でも適用範囲が異なるのだ。このため筆者は、混乱を避けるため、“石材業界”の“大理石”だけを「大理石」と呼ぶようにしている。ちなみに、“大理石”は英語で「マーブル(marble)」だ。 “大理石”というと、彫刻に使われることが多い真っ白な石材をイメージする方もあると思う。しかし、白い“大理石”からアンモナイト化石は見つからない。アンモナイト化石を見つけられるのは、たいていベージュ〜褐色を帯びた色の“大理石”である。まずは、アンモナイト探しにオススメの“大理石”を2つ紹介しよう。
丸の内にもある! ジュラ紀の“大理石”
まずは、その名も「ジュラマーブル」と呼ばれている“大理石”。黄色っぽいものは「ジュラマーブル・イエロー」あるいは「ジュライエロー」と呼ばれる。「ジュラ」とは映画「ジュラシック・パーク」でもお馴染みとなっている地質時代「中生代ジュラ紀」のこと。ドイツ南部のバイエルン地方に分布する、約1億5000万年前にできた石灰岩を切り出した石材である。 この“大理石”は、丸の内ビル、丸の内オアゾ地下、東京メトロ三越前駅改札周辺、赤坂サカス、東京ミッドタウン地下など、東京都内だけでもあちこちで使われている。 ジュラマーブルが使われているこれらの場所で壁を見ていると、ついアンモナイトばかりに目が行きがちだが、含まれている化石はアンモナイトだけではない。「べレムナイト」もよく見つかる。 べレムナイトも、アンモナイトと同じくタコやイカの仲間だが、殻を持たず、現生の“イカの甲”のような硬い骨が体内にあって、それが化石となって残っている。ライフルの弾丸のような形をしており、日本では矢先に似ていることから「矢石」ともいう。透明感のある褐色で、木の年輪のような同心円模様が見えるものがあれば、べレムナイトの横断面だろう。 アンモナイトやべレムナイトよりもたくさんあるのは海綿動物である。海綿動物は原始的な多細胞生物で、英語で「sponge」だといえばピンとくる方も多いだろう。盃状であったり筒状であったり形はさまざま。 だから、断面の形としては、V字形やリング状に見えることになるのだが、やわらかくて変形しやすいし、ちぎれていることも多いので、不規則な模様のように見えている。あちこちに見える不定形の模様はたいてい海綿動物の化石である可能性が高い。
30センチを超える巨大アンモナイトも
次に、「ネンブロロザート」と呼ばれる“大理石”。ピンク~ベージュ色で独特の雲のような形の斑模様が特徴的で、日本橋高島屋S.C.本館や日本橋三越本店などの百貨店をはじめ、国立科学博物館日本館といった近代建築の内装に使われていることが多い。 この“大理石”には、その独特な模様に紛れてアンモナイトが見つかることが多い。ときには30cmを超えるような大物もあるのだから、目の当たりにすると、思わず「でかっ」と声をあげてしまう方も多い。 アンモナイト化石が見つかる似たような“大理石”として「ロッソマニャボスキ」や「ペルリーノロザート」などがあり、いずれもイタリア北部ベネト州に分布するジュラ紀の石灰岩を切り出した石材である。 これらのイタリア産“大理石”は、石灰質の細かい泥ばかりでできていて、サンゴや海綿などの固着生物の化石は見つからない。ということは、この岩石ができた場所は、砂が流れてこないような陸から離れた沖合の海の底であり、陽の光が届くような浅い海ではないと考えられる。 そんな海底に、石灰質の殻を持ったプランクトンの死骸が静かに降り積もっており、時折、アンモナイトの殻やベレムナイトの死骸が沈んできたのではないだろうか。 兎にも角にも、ジュラマーブルとネンブロロザートは、どちらもジュラ紀の海底でできた石灰岩である。アンモナイトなどの化石が見つかることが、何よりの証拠だ。その石灰岩がドイツ南部とイタリア北部という、現在は海から離れているどころか、その間にアルプスという大山脈があるような内陸部で切り出されている。 不思議に感じられるかもしれないが、それは偶然ではない。陸上に恐竜が歩いていたであるジュラ紀という時代、アンモナイトが泳いでいた海が、今は隆起してアルプス山脈になっているということだ。 街角で見られる石材にも、そんな大地の歴史が刻まれている。
ヒマラヤでアンモナイトが見つかるワケ
ところで、アンモナイトが見つかるのはアルプス山脈のあたりだけではない。標高8000m級の山が連なり「世界の屋根」と呼ばれるヒマラヤ山脈でも見つかる。実際、地質学者がネパールから持ち帰るお土産といえば、アンモナイトで決まりと言っても良いくらいらしく、私もいただいたことがある。 泥が固まってできた黒い頁岩という岩石の中から出てきたアンモナイトの化石があちこちで売られているというから、よほどたくさん見つかるのだろう。ヒマラヤ山脈も、かつてはアンモナイトが泳ぐ海だったのだ。 では、ヒマラヤ山脈がいかにして形成されたのか。その原因をご存知の方も多いだろう。そう、大陸同志の衝突である。現在、ユーラシア大陸の一部となっているインド半島は、もともと、南半球に位置する独立した大陸だった。そのインド大陸がプレート運動によって移動してきて、ユーラシア大陸と衝突したのだ。 それは、両大陸の間にあったはずの海が消滅してしまったということでもある。その海底に積もっていた土砂は、ふたつの大陸に挟み込まれて、押しつぶされたり、折りたたまれたり、砕かれたりしながら、高く盛り上がってヒマラヤ山脈となっていった。ヒマラヤ山脈は失われた海の痕である。 実は、アルプス山脈も同様にしてできたと考えられている。現在、ユーラシア大陸の一部となっているイタリア半島は、もともと大きな島だった。その島はもともとアフリカ大陸の一部だったが、プレート運動によって分裂・移動し、ユーラシア大陸と衝突した。 そして、ヒマラヤ同様、その間にあったはずの海の底に積もっていた土砂が、ふたつの大陸に挟み込まれて、押しつぶされたり、折りたたまれたり、砕かれたりしながら、高く盛り上がってアルプス山脈となったのである。 アルプスとヒマラヤだけではない。両者の間に位置し“大理石”の採掘が盛んなギリシャやトルコなども、アンモナイトが見つかる地域である。そして、同じように、海底を持ち上げたのは、アラビア半島がユーラシア大陸に衝突したことである。 要するに、アンモナイトが生きていた時代、ユーラシア大陸は、アフリカ、アラビア、インド(ゴンドワナ大陸)と陸続きではなく、その間にあった大きな海で隔てられていた。それが、大陸同士の接近・衝突によってアルプス山脈やヒマラヤ山脈になったのだ。この“失われた海”を「テチス海」と呼ぶ。ちなみに、「テチス」はギリシャ神話の海の女神「テーテュース」に由来する。 テチス海が山脈になったゾーンは「アルプス・ヒマラヤ造山帯」と呼ばれ、山が造られていく活動(=造山運動)自体は現在もなお続いている。実際、エベレストの標高は最近のGPS計測で年間約2mm程度隆起しているというから、単純計算でも100万年で2000m高くなってしまう。 もちろん、山が高くなれば侵食スピードも速くなるので、そう単純にはいかないが、地球のタイムスケールで考えれば、海底が山脈になるのに充分な隆起速度だということはわかってもらえるだろう。 テチス海は、造山運動によってアジアでは消滅してしまったが、ヨーロッパとアフリカの間にはその名残りとして地中海が残っているのである。
テチス海はどんな海だったのか
では、テチス海とは、どんな海だったのか。 中生代といえば、地球全体が温暖な時代で、平均気温は現在よりも数℃度高かったと推定されている。このため、海水準が上昇し、浅い海が広がっていた。 テチス海は赤道域に位置していたから、かなり温暖な海だったと考えられ、アンモナイトをはじめ、魚竜や首長竜などの大型動物が泳いでいたに違いない。サンゴや厚歯二枚貝など、炭酸カルシウムの骨格を持った固着性の生物のみならず、有孔虫やナノプランクトンなどの浮遊性の生物も繁栄していた。つまり、生命あふれる海だった。これら生物の遺骸が海底に降り積もることで炭酸カルシウムの地層となったのである。 テチス海の底に積もった炭酸カルシウムの地層はやがて堅い石灰岩へと変化し、大陸衝突によって隆起したり、地下深部に押し込められたりした。地下深部に押し込められた石灰岩は、高温高圧下で再結晶し、白っぽい結晶質石灰岩へと変わった。 白っぽい“大理石”からアンモナイトなどの化石が見つからないのは、あったとしても再結晶によって消えてしまったからである。化石がないということも、その石自体が経験してきた記録と言える。 このように、街の中で見つかる“大理石”は、海が山となった証拠であり、海底の堆積物が岩石に変化してきた記録なのである。長い年月をかけてできた海の跡が、現在、街を飾るために使われている。少しだけ地質学の知識を持ち、街を歩いて石をめぐれば、かつて存在していた海を垣間見ることができる。 地質学とは、自然だけではなく、街角の景色までもおもしろくしてくれる強力なツールでもあるのだ。
西本 昌司(愛知大学 教授)
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