Source:https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/1109c5cf55713d811afa59f35b719e7d505b5e1f
華盛頓Webライター
明治時代は現在よりも交通が発展しておらず、今よりも海外へ行くことは容易ではありませんでした。
しかし中にはただ海外に行くだけでなく、当時厳重な鎖国下にあったチベットに入国した人もいます。
今回は日本人として初めてチベットへ入国した河口慧海の大冒険について紹介していきます。
河口慧海の大冒険
世の中には、山の向こうに何があるのか気になって仕方ない人間がいます。
河口慧海もその一人で、まだ日本人が足を踏み入れたことのない地、チベットを目指しました。
慧海は1866年、堺の山伏町に生まれました。
幼き頃は父の桶作りを手伝いつつ、寺子屋や夜学でこつこつと学びます。
やがて土屋弘のもとで漢籍、さらに米国宣教師から英語を習い始めました。
これだけでも十分異色の道程だが、彼の学問への飽くなき欲望は留まるところを知りません。
彼は同志社に進学し、哲学館で哲学を学び、ついには黄檗宗の僧となり五百羅漢寺の住職となったのです。
ところが、慧海の人生にはさらなる波乱が待っていたのです。
なんと彼は、梵語やチベット語の経典を求めて、はるばる鎖国中のチベットへ踏み込んでしまったのです。
時は明治30年、1897年のこと。
神戸港を出航した彼は、南国の香り漂うシンガポールを経由し、インドのカルカッタに上陸しました。
そこで彼を待っていたのは、摩訶菩提会のチャンドラ・ボースと、ひとりの謎めいた学者だったのです。
その名もサラット・チャンドラ・ダース。既にチベットへの潜入経験を持つ彼との出会いは、慧海にとって実に幸運なものでした。
こうして慧海は、チベット語を学ぶ日々を過ごすことになります。
正規の学校で学び、下宿先の家族からは通俗的な表現まで吸収していくのです。
しかし、問題は「どうやってチベットに入るか」でした。
当時のチベットは鎖国状態にあり、うかつに日本人であることがバレると難関です。
そこで慧海は中国人に扮するという一計を案じ、ネパール経由で入境を試みることにしました。
チベットへの道のりは容易ではありませんでした。
1899年にはブッダガヤで仏教の聖地を訪れ、そこにいたダンマパーラから仏舎利が収められた銀製の塔を預かることになったのです。
さらにネパールのカトマンズに着くと、住職ブッダ・バジラ・ラマの元で間道を探りつつ、チベットへの抜け道を模索する日々が始まりました。
カトマンズからポカラ、ムクテナートと旅を続けるも、国境付近では途絶える道。
抜け道を探すものの、結局、その年の春までロー州ツァーラン村に滞在する羽目になったのです。
その後も道なき道を進む河口慧海。
1900年、マルバ村(またはマルファ)では、村長の邸宅で仏典を紐解きながら季節を待つことにしました。
そして同年6月、ついに峠を越え、伝説の地チベットへの入境を果たしたのです。
その際、尊者ゲロン・リンボチェや聖地カイラス山などを巡礼し、いよいよ首府ラサに到達しました。
ラサでは「中国人」を名乗りつつも「チベット人」のふりをする二重生活。
さぞ息苦しかったことでしょう。
にもかかわらず、たまたま脱臼した人物を治したのがきっかけで、慧海は「セライ・アムチー」として評判を呼び、ついにはダライ・ラマ13世からの招待を受けるに至ります。
だが、医者としての栄誉を断り、仏教の修行に専念することを選んだのでした。
しかし、秘密はいつか漏れるもの。
日本人であることが露見する危機が迫り、慧海は密かにラサを脱出したのです。
ラサでの親しい人々が投獄されたと聞き、帰国後も彼の心は穏やかではありませんでした。
1903年には再びネパールへ赴き、交渉の末、ダライ・ラマ宛ての書簡を託して事態の収束を図ったのです。
慧海が帰国し、「西蔵旅行記」を発表すると、人々は彼の冒険談にどよめき、同時に「そんなこと、あり得るか?」と懐疑の声もあがりました。
しかし、その疑いをものともせず、慧海は仏教研究と著作に没頭し、やがてウパーサカ(在家仏教)を提唱します。
太平洋戦争の終戦直前、不運にも防空壕の入り口で転倒し、世を去るまで自身の道を貫いました。
現在、慧海の眠りは青山霊園に続いているものの、彼の冒険は日本の地で語り継がれ、神秘のベールを纏ったままです。
参考文献
河口正(2000)『河口慧海 日本最初のチベット入国者』春秋社
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