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秋分の日の翌日にあたる9月24日(日)、東京・豊島区池袋で4年ぶりに「ふくろ祭り」が開催された。そのメインイベントの1つが、地元の町会の神輿10数基が練り歩く「宵神輿大パレード」だ。多くの担ぎ手たちで埋め尽くされた池袋駅西口前のビルの谷間の通りは、尋常ではない熱気に包まれた。 なかでも観客の目に留まったのは、「国際交流のおみこしを担ぐ会」の神輿だった。外国人の若者たちと日本の人たちが一緒に神輿を担ぐという微笑ましい姿が見られたからだ。 ■1994年から続く「国際交流みこし」 今回参加した外国人は、都内在住者や豊島区内の日本語学校生、訪日旅行中の観光客など約60名だった。国籍も多様で、アメリカやドイツ、フィンランド、中国、シンガポール、フィリピンなど、13カ国の人たちが集まった。 町会の神輿に外国人が飛び入りで参加するという光景は、最近では、全国各地でよく見られるかもしれない。だが、この「担ぐ会」のように、事前に参加希望者を募り、外国人に半天と帯、手ぬぐいを貸し出し、着付けを教え、神輿の担ぎ方の練習を行ったうえで、揃って現場に赴くというような念入りな活動は、都内はもちろん、全国でも類例がないものだという。 しかも、この「国際交流みこし」は、行政主導ではなく、また氏子町会や商店街といった既存の地域単位でもなく、地元有志の任意団体が主体となって1994年から続いている。 「国際交流のおみこしを担ぐ会」の会長の富澤弘治さんによれば、活動が始まったのは1990年代初頭だという。「その頃、西池袋の平和通り周辺に外国人の立ちんぼが現れたことから、地域の環境悪化をなんとかしなきゃと、地元で国際交流事業を立ち上げようという話になった」そうだ。 当時は外国人の不法就労が問題になっていた時代であり、新宿区の新大保界隈でも同様の光景が見られた。 「われわれは彼らのことをまったく知らない。お互いを理解することから始めなければ」と考えた富澤さんは、青年会議所の事業として、まず1992年に在住外国人に日本文化を伝えるイベントを実施した。翌1993年には池袋のアジア系外国人の調査を進めていた研究者を呼び、講演を聞くとともに、パネルディスカッションを開催した。 とはいえ、こうした活動だけでは、関心のある少数の人たちしか集まらないので、もっと広くアピールできる場はないかと考え、1968(昭和43)年に始まり、池袋で50年以上の歴史がある「ふくろ祭り」で神輿を通じた国際交流を企画した。 問題は、どうやって地元を説得するかだったが、当時の西池袋一丁目町会の会長に「外国人を集めて一緒に神輿を担いでいいですか」と話すと、思いがけず「いいよ」という答えを得たという。 そこで、翌1994年、豊島区在住の外国人に声をかけて、町会の子供神輿を借りて、彼らと一緒に担ぐことになった。 「初年は10人くらいしか集まらなかったが、驚いたことにイスラム系の男女なども来た。当たり前かもしれないが、彼らは足袋の履き方さえ知らなかった。それを教えることから相互理解が始まった。 その後、1996年には国際交流専用の神輿をつくった。そのとき、生まれたのが、いまの『担ぐ会』。ホップ・ステップ・ジャンプでここまできたので、毎年やろうということになった。地元の町会が受け入れてくれたことがミソだった」
参加する外国人たちも様変わり
こうして続けられた「国際交流みこし」だったが、富澤さんたちは、時代とともに参加する外国人たちが様変わりしたと感じていた。 「もともと韓国の人が多く、次に中国の人、そしてベトナムの人が増えるなど、国籍もそうだが、昔は貧しい就学生というイメージだったのに、最近ではお金に不自由していない留学生ばかりになった」 富澤さんたちは「国際交流みこし」のために近隣の祭りで屋台を出すなどして資金を集めている。なぜそこまでして続けるのか。富澤さんはこう話す。 「この街で生まれ、育ち、仕事をしているのだから、やるしかない。子供たちの世代のために地元のために何かできないか。そう考えるのは当然のことです」 東京都の統計によると、2023年7月現在、豊島区の在住外国人比率は10パーセントと、11.7パーセントの新宿区に次いで高い。半数を占めるのが中国籍で、ベトナムやネパールなどが10パーセント弱である。 筆者がふとした縁でこのユニークな活動を知り、関心を持ったのは理由があった。 話は1980年代にさかのぼる。前回のコラムで「いかにして池袋は『ガチ中華』の町になったのか」というエピソードを紹介したが、当時、学生だった筆者は東池袋の一地区で社会調査をしていた。 1960年代以降の高度成長期に地方から上京してきた若年労働者の受け皿だった東池袋4丁目から5丁目では、1980年代になると、韓国やフィリピン、バングラデシュなどのアジア系ニューカマーが住み始めた。 筆者は、同地区の木賃アパート街に住む外国人を訪問し、「来日の動機」や「日々の生活の苦労」「日本に対する思い」などをヒアリングした。ラーメン屋の主人に「近所に外国人居住者はいないか」と聞き出し、いきなり部屋を訪ねたこともあった。 アパートの扉を叩くと、不安顔の外国人が現れ、「入管の人間が来たのかと心配した」と言われたりもした。訪問される側に対する配慮や想像力の欠けた、なんという無知で無邪気なふるまいだったろうと思う。 一方、地域の人たちの話も聞いた。いまでも印象に残っているのは、ある明治生まれの町内会長(当時)が口にした「祭りの神輿の担ぎ手は誰にすべきか」というのが地域の課題だという話だった。会長には、神輿は地元の人間が担いでこそ、との思いがあったのだろう。 その当時、筆者が思ったのは、アジア系ニューカマーたちがかつての地方出身者と同じように地域のコミュニティに参加し、神輿を担ぐことは想像しにくいということだった。彼らは生活に追われ、同じ若者といっても、文化的なバックグランドが違うからである。
イベントに無関心な「ガチ中華」の人たち
そんな記憶がずっと残っていたので、今年9月24日、池袋を訪ねた筆者は、「国際交流みこし」が30年間も続けられていたことを知って驚き、いかにも池袋という土地柄を象徴する取り組みだと思ったのである。 この日、「担ぐ会」の関係者や参加外国人に話を聞く機会もあった。そこではこんな声も聞かれた。 「本来であれば、日本人と外国人の区別なく、同じ『区民』や『都民』として交流するべく、とりわけ区内で人口の多い中国籍の皆さんに担いでもらいたい思いはあるものの、実際にはそうなっていないように感じる」 ここでいう「中国籍の皆さん」とは、近年池袋に急増した「ガチ中華」のオーナーや従業員たちのことである。彼らは必ずしも区内居住者とは限らないが、店は「国際交流みこし」の舞台となる池袋西口の商店街に集中しているからだ。 「ガチ中華」の知り合いが多い筆者は、この話を聞いて考えさせられた。なぜ彼らは地元の祭りに参加しないのか。いくつかの理由が考えられる。 まず彼らからすれば、池袋のような在住人口が少ない都心の商業エリアにおける地域社会の実情が見えにくいことがあるだろう。地域に縁のある人たちや同好の士が集まり、神輿を担ぐことで支えられているのが今日の祭りの姿であり、それは日本人にはよくわかる話なのだが、彼らには何が起きているのか理解できないかもしれない。 中国政府の検閲を受けずに製作された中国のインディペンデント系ドキュメンタリー映画の作品などを観るかぎり、1990年代くらいまでは、中国各地でローカル色豊かな祭りや冠婚葬祭が行われていたことがわかるし、当時筆者もそのような場に出会ったことがある。 だが、21世紀以降、少なくとも中国の都市部では、宗教施設の行事を除けば、日本のような地縁をベースにした祭りの多くは消滅しているように見える。 「担ぐ会」に参加した中国人留学生たちに聞くと、故郷で日本の祭りのようなものを見たことがないという。それゆえ、若い彼らは多くの参加外国人と同様に、興味深い体験だったと興奮気味に話していたのが印象的だった。 一方、池袋の「ガチ中華」の人たちは、前述のように地域のイベントに対する関心がほぼないといっていい。率直に言えば、彼らには自分が地域とつながっているという自治意識のような観念はなく、こうした祭りを支える人々の精神的な背景や日本の民主社会の成り立ちについても想像すら及ばないだろう。 自治体をはじめ、彼らにそれを教えてくれる人がいないからでもある。だから、地元の人たちの熱意や思いが伝わらない。相手が何を考えているかわからないため、伝え方もわからない。 なにも筆者は皮肉を言いたいのではない。こうした双方のディスコミュニケーションは池袋に限らず、日本各地で見られることだと思うが、そこに今日の多文化社会の内実を理解する難しさがあることを痛感したのである。
中村 正人

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