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義務教育を受けられなかった人や、日本語の不十分な外国人が学ぶ受け皿となっている、夜間中学。そこで36年間、教壇に立ち続け、日本語を教えてきた教師がいる。関本保孝さん(66)だ。外国人たちが学ぶ場と居場所をつくり続けてきたが、退職後のいまも夜間中学の拡充を目指し、活動を続けている。(ジャーナリスト・室橋裕和/撮影・菊地健志/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
教育を受けられない外国人の受け皿として
「もともと、夜間は3年くらいのつもりで入ったんですよ。それが12倍、36年になっちゃった」 関本さんは振り返る。 「教師になろうと思ったきっかけは高校のとき。日本史の先生に影響を受けて、同じように社会科の教員になろうと思ったんです」
中央大学で国史を学び、教員採用候補者選考試験には合格したものの、志は早くも挫折する。その年は採用の枠がほとんどなかったのだ。教員は試験に受かってから自治体の必要に応じて採用が決まる仕組みである。 採ってくれる学校が見つからず落ちこんでいたところに、教育委員会から思いがけない連絡が入った。「夜間中学に退職者が出て、ポストが空いている」というものだった。 「私としてはとにかく早く教員になりたかった。だからそのときは、とりあえず夜間に潜り込んで(笑)、3年くらい経験を積んでから、昼の教員への異動を狙えばいいかって思ってたんですが」 こうして1978年、東京都墨田区の曳舟中学校(現・文花中学校)にある夜間学級教員として採用される。そのころ、夜間中学に多かった生徒は、戦前・戦中を中国で暮らし、戦後になって引き揚げてきた人やその子どもたち。 「それこそ『あいうえお』もわからないことも多いんです。そんな生徒たちに、イチから手探りで日本語を教えていく」
留学生に日本語を教える仕組みはあったが、生活者に日本語を教育するというのはまったくの未開拓分野。そこに面白さを感じるようになる。 「マニュアル通りに教科書を使ってたら、わからないってみんな来なくなっちゃう。学習指導要領なんて通じない世界だったから」 同僚たちと協力して、やさしい日本語を使った教科書を自作した。そこにちりばめられているのは、日本の暮らしに必要な情報だ。 「たとえば『キリンが何頭いますか』なんて質問があったとします。でも日本で生活をするなかでキリンって単語を知ってもしょうがないじゃないですか。それは後でいい。その前に『椅子』『机』といった身の回りのもの、『駅』『野菜』『魚屋』のような実践的な言葉をどんどん覚えてもらう」 昼の学校ではなかなか認められない、そんな創意工夫と臨機応変さがむしろ求められる世界に、やりがいを感じた。教えるのは日本語や学校の勉強だけではない。日本の文化や生活マナー、交通ルールなど日本で暮らしていくために必要なことも、授業の中に取り込んでいった。 「生徒たちの日本語がうまくなっていって、学校生活を楽しんでいるのを見るのはやっぱりうれしいんですよ。あんまり楽しくて、結局ずっと夜間で教え続けることになりました」
夜間中学には時代が映る
日本に夜間中学ができたのは1947年のことだ。戦後の混乱と貧困の中、学校に行けず働く子どもたちにどうにか義務教育を施すためだった。昼間は働いて、夜に学校に通う夜間中学がまず大阪に開かれた。 夜間中学は、日本語教育の場ともなっていく。1965年の日韓基本条約締結をきっかけに、在韓日本人が帰国し始めたからだ。彼らの中には日本語があまり話せない子どもたちもいたが、その子どもらも夜間中学が受け入れた。1970年代には日中国交正常化を機に中国からの引き揚げ者が増えはじめ、その真っただ中に関本さんは飛び込んでいった。 「1975年以降の夜間には、ベトナムなどからインドシナ難民がやってくるようになります。そして2000年代に入ると、仕事や国際結婚などさまざまな理由で日本に来た移民たちや、その子どもが増えていきました」
関本さんたち夜間の教員は、外国人生徒たちの生活すべてを受け止めていく。日本語があまり話せない生徒が体調を崩せば、病院に同行した。貧しい家庭の生徒が多かったから、就学援助の申請も手伝った。 「生徒たちは、昼間はアルバイトして家計を支えているわけですが、就学援助を受けるにはその収入を確定申告することが必要なんです。外国人には難しいから、それを教員総出でやってね」 卒業を控えた生徒たちの就職活動にも奔走した。 「新聞の折り込み広告の求人を見て片っ端から電話したり、もうちょっと給料上げてもらえませんか、と交渉したりね」 そして、願わくは高校に入ってくれるよう、根気強く授業を繰り返した。 「外国人の子どもたちに将来の目標を聞くと、正社員になりたいって答えがよく返ってくる。そこで求人票を見せるんですよ。ほら、みんな『高卒以上』って書いてあるだろって。だからがんばって、夜間中学を出て高校に行こうな、と指導するんですよ。高校に行けば大学に行く道も開ける。正社員にもなれる。すると生活も収入も安定する。それは日本社会の安定にもつながるでしょう」 どうしてそこまで生徒のために? 関本さんにそう聞くと「それはまあ先輩たちもやってきたことだし」と照れくさそうにしながらも答えてくれた。 「誰かがこういうことをやらなかったら、外国人に対する誤解を広げて、社会的にも分断を生むじゃないですか。それは外国人にとっても、日本社会にとっても、お互いに不幸なことだと思うんですよ」 関本さんは2014年に退職後も、夜間中学の増設を目指す運動を行い、また外国人の子どもを学習支援する教室でも教え続けている。
八王子五中で人生が変わったネパール人
ネパール人のシュレスタ・ラジーヴさん(27)は、実際に夜間中学で学んだ経験を持つ。 「日本の常識やライフスタイル、人生そのものを教えてくれたんです」
流暢な日本語で言う。いまでこそ八王子市内でインド・ネパール料理店「うまんぱさる」を経営し、地域の人気店になっているが、16歳で来日したときはどこか投げやりだったのだという。 「日本でカレー屋を開いた父に呼ばれたんです。でも日本語が全然わからず、学校にも行かずに、知り合いに紹介されたそば屋でアルバイトするだけの毎日でした」 思春期にいきなり環境が激変すれば無理もないのだが、漫然とアルバイトをしながら2年が過ぎたころ、ショックを受ける出来事があった。 「電車の中で50歳くらいの女性に席を譲ったら、すごく怒られたんです」 日本人ならなんとなくその理由も察しはつくが、ラジーヴさんは驚き、悩み、何日も考え込んだ。 「自分は日本語だけでなく、日本の社会も文化も、日本人の考え方も何も知らない。このままだとこの国で生きていけない。そう感じたんです」 年齢的にもう昼の中学には入れない。もちろん高校に入れる学力も日本語力もない。そんなときに知り合いのネパール人から教えてもらったのが、八王子市立第五中学校の夜間学級だった。すぐに入学すると、昼間はアルバイトをして、夕方5時に学校へと向かう生活が始まった。給食が夕飯だ。夜9時まで学び、それから家に帰って、また朝から仕事に出かける。 「同級生は日本人のほかに、ロシア人、フィリピン人、韓国人、中国人……いろんな人がいた。3年生まで全部合わせて50人くらい。日本人のおじいちゃんもいましたね。みんな家族のようだった」
先生は厳しいけれど、礼儀正しさや、時間を守ることなど、日本のマナーやルールをたたきこんでくれた。日本語もめきめき上達し、漢字の読み書きにも慣れていく。世代も国籍も違う級友たちと、浴衣やお茶といった日本文化の授業や、体育祭の思い出もつくった。 やがて夜間中学を卒業したラジーヴさんは高校に進学。そこで出会った日本人の女性と結婚し、いまは生まれたばかりの娘を守り、家族でインド・ネパール料理店を切り盛りする。 「夜間中学に通わなかったら、もっと適当な、いいかげんな人生だったと思う」 実際、日本社会になじめず、すさんでいく「移民の子」は多い。親の仕事のために日本に来ただけであって、自分から進んで選んだ場所ではないのだ。国の友達と別れたさみしさもある。日本語の壁にぶつかり、あるいは差別に悩み、ドロップアウトしていく子どもたちもいる。そこを埋めるもののひとつが夜間中学なのだ。 「僕は五中に人生の選択肢を与えてもらった」とラジーヴさんは語るが、そんな八王子五中の夜間学級がいま、存続の危機にある。 東京の西郊、広大な多摩地区にただひとつ設置されている八王子五中夜間。そこに通う生徒は3学年合わせて、外国人ばかりわずか14人だ。このままだと廃止になるのでは、と危ぶまれている。関本さんがいま最も気がかりなことでもある。 「需要が少ないから生徒が減っているわけではないんです」 むしろいま日本は外国人が急増する時代を迎えている。八王子をはじめ多摩地区にもおよそ9万人の外国人が暮らす。その中には日本語がおぼつかない人も多い。それに日本では近年、いじめや家庭の問題から不登校になってしまった人が学び直す場として夜間中学が見直されてきている。 現在の夜間中学は、15歳以上で、中学校を卒業していない人なら誰でも入学できる。国籍は問わない。 「時代の趨勢は、まず夜間に表れてくるんです。本当に教育が必要な人たちがまずやってくるのが夜間なんです」 しかし八王子に夜間中学があることや、不登校だった人や外国人も受け入れていることはあまり知られていない。 そこで関本さんたち有志は、広報を買って出ている。八王子の駅前でチラシを配り、オンラインで夜間中学についてのイベントを開催し、八王子五中夜間存続のための署名活動にも奔走する。
当事者にとっては、救いの学校
「関本先生は本当に優しかったんですよ」 そう語る青木秀美さん(66)は、関本さんの教え子だ。22歳で日本人と結婚して韓国から来日し、日本語がまだほとんどわからないころに曳舟中学校の夜間に通った。そのときの教師が関本さんだ。 「日本語をひらがなから親切に教えてくれたことをよく覚えています。もし夜間に出会わなかったら、どうやって生きていたんだろうって思う」
いまも青木さんは、関本さんの教え子だ。関本さんたち元夜間中学教師が中心になって主宰する「えんぴつの会」に、通い続けている。ここは夜間中学卒業後も学びたいという人や、もっと日本語を上達させたいという外国人たちが集まってくる「自主夜間中学」だ。青木さんは勉強の一環で、日本語で日記を毎日綴り続けてもう3年になる。 韓国出身の中原紀子さん(67)も「えんぴつの会」の生徒だ。59歳のときに夜間中学に入った。大病を患い、退院してから、残りの人生でいったいなにをやりたいのか考えた結果、出てきた答えは「学び」。娘に伝えると、大賛成してくれた。 「夜間の授業参観には、娘が来てくれたんです」
卒業後も、もっと日本語力を伸ばしたいと、「えんぴつの会」に通う。いまでは子どもたちと日本語を使ってLINEでやりとりできるようになった。 「夜間中学って、当事者にとっては救いの学校なんです」 関本さんは言う。外国人が急増し多民族化が進んでいくなか、日本語と基礎学力を学べる夜間中学の重要さはより増していくはずだ。 「それでもまだ、夜間は10都府県に34校しかないんです。これを全国に拡充させる活動をしていきたいですよね。やりがいはありすぎるくらい、ありますよ」 --- 室橋裕和(むろはし・ひろかず) 1974年生まれ。週刊誌記者を経てタイ・バンコクに10年在住。帰国後はアジア専門の記者・編集者として活動。取材テーマは「アジアに生きる日本人、日本に生きるアジア人」。現在は日本最大の多国籍タウン、新大久保に暮らす。おもな著書は『ルポ新大久保 移民最前線都市を歩く』(辰巳出版)、『日本の異国 在日外国人の知られざる日常』(晶文社)、『バンコクドリーム 「Gダイアリー」編集部青春記』(イースト・プレス)、『おとなの青春旅行』(講談社現代新書、共編著)など。
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