Source:https://news.yahoo.co.jp/articles/73d2a56d5d22ef822c43751dca94bb191d2856e5
地政学が一大ブームだが、そのベースとして必要なのは「世界地図を読む力」、すなわち各国の文化や歴史、政治経済や社会情勢に関する深い地理的知識に他ならない。本連載では、話題の新刊書『おもしろ雑学 世界地図のすごい読み方』からの抜粋で、日本人があまり知らない世界各地の意外な実情をわかりやすく紹介する。今回は、第二次世界大戦後の独立が、その後の紛争へとつながっていった南アジア諸国の歴史背景について。 【この記事の画像を見る】 ● バングラデシュは 「パキスタンの飛び地」だった イスラム教徒(ムスリム)の結びつきは非常に強いが、一度燃え上がった対立の炎はなかなか消せない――。バングラデシュという国の歴史を知ると、そのことを思い知らされる。 かつてインド大陸一帯(現在のインド・パキスタン・バングラデシュ・ネパール・スリランカなど)は、「英領インド」としてイギリスの支配下に置かれていた。ただし同じイギリスの植民地といっても、宗教はバラバラ。現在のインドにはヒンドゥー教徒が多く、北西部と北東部にはムスリムが多く、スリランカには仏教徒が多い……といった具合に、宗教分布は複雑に入り組んでいた。 そのため1947年にイギリスから独立する際、宗教ごとに国がつくられることになった。つまり、ヒンドゥー教徒の国であるインド連邦(現在のインド共和国)、ムスリムの国であるパキスタンという形で独立することになったのである。 このときパキスタンは、インドを隔てて東西2地域に分かれていた。東は「東パキスタン」、西は「西パキスタン」といい、地理的には離れているが、2地域でひとつの国を成していた。これがムスリムの結束力の強さである。 しかし、東西パキスタン格差が原因でうまく機能せず、20年ほどで分離してしまう。
● 東西パキスタンが インドを交えて戦争状態に 東西パキスタンのうち、政治の主導権を握ったのは西パキスタンだった。そのせいで東パキスタンは経済的に困窮。人口が多いのも、ジュート(麻)などの特産品があったのも東パキスタンだったが、国の中心は西パキスタン。この現実を東パキスタンはなかなか受け入れられなかった。 さらに、言語の違いも東西の一体化を邪魔した。東パキスタンの公用語はベンガル語、西パキスタンの公用語はウルドゥー語で、それが相互理解を難しくしたのである。 西パキスタンが「主」ならば東パキスタンは「従」であり、東パキスタンは次第に西パキスタンの“飛び地”のような存在になっていく。そうしたなか、西パキスタン主導の中央政府が1952年にウルドゥー語の全国公用語化を画策する。当然、東パキスタンは激怒し、反政府独立運動を開始した。 そして1970年、ついに独立戦争が勃発。これに東パキスタンを支持するインドが介入してくると、今度は西パキスタンとインドの間で戦争がはじまり(第3次印パ戦争)、インド大陸は大混乱に陥ったのである。 この戦いに勝利したのはインドで、インドの庇護のもと、東パキスタンは1971年にバングラデシュとして独立をはたした。 一時は巨大な飛び地のような存在に追いやられていた東パキスタンだが、晴れて一国家としての地位を手にしたのである。
● カシミール地方の国境線が 実線ではなく点線である理由 インドとパキスタンはもともとムガル帝国の支配下にあり、その後、イギリスの植民地となった。1947年にヒンドゥー教徒が多いインドと、イスラム教徒(ムスリム)が多いパキスタンに分かれて独立したが、その関係は“双子”といえなくもない。 しかし、両国は独立以来、長く対立を続け、何度も戦火を交えている。1990年代後半には両国とも核保有国となり、核戦争の危機に直面した。 現在も続くインドとパキスタンの対立。その原因のひとつとなっているのが、両国の国境地帯に位置するカシミール地方の領有権争いだ。カシミール地方の国境線が実線ではなく点線などで描かれているのも、領有権争いの痕跡である。 そもそもカシミール地方は、ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈が連なる山岳地帯のことを指す。第二次世界大戦前はイギリスが統治していたが、戦後、イギリスからインドとパキスタンに分かれて独立することになったとき、カシミールはインドに属するのか、パキスタンに属するのかという問題が生じた。 カシミールを統治していたマハラジャ(藩王)はヒンドゥー教徒だったのに対し、この地域の住人の大多数はムスリムだった。そのため、インドとパキスタン双方が「カシミールはわれわれのものだ!」と主張し、武力衝突へと発展したのである。 1947年、カシミール地方のマハラジャがパキスタンへの帰属を拒むと、パキスタンが軍を派遣。救援にやってきたインド軍とのあいだで第一次印パ戦争が勃発した。戦いは2年間続き、1949年にようやく停戦となる。 その後もインドとパキスタンはカシミール地方をめぐって火花を散らし合い、1965年に第二次印パ戦争、1971年に第三次印パ戦争を起こすことになった。世界に衝撃を与えた両国の核実験、それに続く核保有も、こうした対立のなかで進められたものだった。 領有権争いがはじまってから70年以上経過しているが、カシミール地方ではいまも大小の軍事衝突が絶えない。地図に示された点線は停戦ラインで、そのラインまでそれぞれが実効支配しているのだが、両軍ともラインを越えてたびたび砲撃戦を繰り広げているのである。2020年11月にも砲撃戦があり、双方で13人以上が死亡、数十人が負傷した。 本来、カシミール地方は「地上の楽園」といわれる風光明媚な地。そんな美しい場所が火薬庫となっているとは、なんとも皮肉である。
ライフサイエンス
0 件のコメント:
コメントを投稿